| 水晶宮のレディ・エルム 7 |
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************************** 「しかし、よく考えてみると、おかしなことが多いね、この『誘拐』事件には」 「え、エヴァレットさん!?」 「……いつの間に……事件を嗅ぎ付けて来たというのか…さすが名探偵」 「さあ君たち、未遂だったら見逃してあげるから、何を企んでたか正直に言ってごらん」 「ね〜アニキ、もうやめましょう〜。おいらアニキの言ったとおり手紙を投げ込んだけど、よく見たらアニキに借りたこの時計、壊れてるみたいなんですよ〜。ほらネジを巻いても動かない」 「なに〜〜!? お、オレのたったひとつの財産が……! 散歩中のガキは見失うし……もう散々だ……」 「ふふ……そういうわけで、このひとたちは基本的になんにもしていないんですよ」 ********************** 落ちる────落ちる────────落ちる────………? ニレの木の根元に開いた精霊界への入口へ足を踏み入れると、そこには予想していた足の踏み場がなかった。 ふわっと身体が宙に浮いたかと思うと、どこまでも──────……… しばらくのあいだ、エリックは固く目をつぶってしまっていたらしい。ぽかりとエリックが目を開くと、そこは薄明かりに満たされた広い空間だった。自分が「落ちて」いるのは何となく分かる。でも上を見ても自分が入ってきた入口が見えない。下を見ると、薄暗がりがだんだん濃くなって、闇色しか見えない。 と、すぐ隣にふわりとアリエスの水色のスカートが広がった。 「やっと、追いついたわ……って、なに見てるのよ!!!」 広がるスカートを片手で押さえながら、もう一方の腕で泳ぐみたいに空気をかき分けて、アリエスがそばにやってきた。 「すごいわ。落ちているのに、浮かんでいるみたい……。ウサギの穴って、きっとこんな風なのね……」 「ウサギの穴? なにそれ?」 「やだ〜、『アリス』よ。読んでないの?」 アリスって、最近評判のルイス・キャロルの? エリックがそう聞き返そうとした時、ヴァージルがふわふわと近づいてきた。 「いつもならすぐに精霊界に入れるはずなのに………アリエスがとても強いイメージを持っているんだね……。こんな入口は、初めてだよ………」 ヴァージルの頭のすぐそばに、オレンジマーマレードのビンが浮かんでいた。 ……ヘンなの。 『アリス』とやらに対するエリックのイメージが、一瞬にして確定した。 「ああ……でもほら、もうすぐだよ……」 「うわ……!?」 急に辺りを満たしていた薄明かりが白く輝いた。と、不意につま先が固いものに触れた。バランスが取れずに、エリックはしりもちをついてしまった。 「イテテ……」 気を取り直して立ち上がると、驚いたことにそこは石畳に蒸気灯の立ち並ぶ、見慣れた倫敦の街中だった。 「な、なにこれ……倫敦? あたしたち精霊界に来たんじゃなかったの?」 「アリエス……これ、倫敦じゃないよ。なんか、違う……」 そこは新聞社や銀行のたち並ぶ、倫敦のメインストリートだった。街が霧に包まれているのは別に珍しいことではない。でもその霧はなぜか視界を遮ることがなく、メインストリートの果ての広場まで見通すことができてしまっている。それに、昼間でも夜でも、倫敦のメインストリートに人が一人もいないなんてあり得ない。 「……ここが精霊界だよ……」 「うわっ!!」 「きゃっ!?」 いきなり背後から声をかけられて、エリックとアリエスは文字通り飛び上がってしまった。 「もう、ヴァージル、おどかさないでよー!!」 「……………?」 どうしてアリエスに怒られたのかわからないらしく、小首を傾げてみせたりしている。 「ねえヴァージル、ここが精霊界なの?まるっきり倫敦と変わらないみたいに見えるけど……」 少なくとも、見た目だけは。 「…ああ……ここは、間違いなく精霊たちの世界……。君たちの世界とは、表と裏の関係にあると言っていいかも知れない……。この世界はとても不安定で、見る者によってその姿を変える……。その人の想いを映し出す……」 「見る者? 想い??」 「……うん……ひとくちでは説明できないな…。……精霊界は、今はたまたま倫敦と同じ形をしていて……、この街のどこかにいる、小さな女の子が……」 「小さな女の子!!」 「やだー、すっかり忘れてた! それってセシルちゃんよね!?」 「……まだわからないけど……その可能性はある……。どこかこの街で、その子がいそうなところはある……?」 精霊界の入口に足を踏み入れてから驚きの連続でころっと忘れていた本来の目的を思い出した二人は、ようやく探偵モードに戻って頭を動かし始めた。 「やっぱり、万博かなぁ」 「港も見たいって言ってたわ」 「地下鉄に乗ってみたいとか」 「中華街にも行ってみたいって言ってたよね」 屋敷でよほど不満がたまっていたのだろうか、セシルの好奇心は留まるところを知らないようだった。ハイド・パークへ向かう道々、行きたいところ、したいことをそれは楽しそうに話してくれたのだ。 「思い当たるところが多すぎるわ……」 「ねえ、ヴァージルは何か感じないの? セシル……その子の、気配とか」 「ん……おぼろげには………でも、遠すぎてはっきりしない……。もう少し近くないと……」 ヴァージルの“レーダー”は、そんなに精度が高くないようだった。 「それじゃ、とりあえずハイド・パークへ行ってみようよ」 「そうね。なんと言っても一番に行きたがっていたところだし」 「……じゃ、行こうか……」 ふたりのやりとりを聞くが早いか、ヴァージルはスタスタと歩きだした。この街の不思議な雰囲気をものともしていない様子だ。 ……なんだか、いつもと反対だよね……。 いつものヴァージルは、人にあふれた倫敦の街を歩くエリックの後ろを、少し不安げなふわふわした足取りでついてくるというのに。でもそういえば、背景の街並みはいつもと同じなのに、この精霊界の倫敦には、何故かヴァージルがしっくりと溶け込んでいるように感じられる。 なんとなく、夜の倫敦を一緒に歩いたときにも、そんな感じがしたような。 ヴァージルって、やっぱり……? 漠然とそんなことを考えながら、ヴァージルの揺れるマントを見ながら歩いていると、急にアリエスが声を上げた。 「あれっ??」 「ど、どうしたの!?」 「今歩いてたの、、ホテル前だったよね……」 辺りはいつの間にか、雑然とした裏通りの風景になっていた。 「おかしいわおかしいわ!! 一本道だったはずなのに……!」 「あれ……? ヴァージル!?」 二人が立ち止まってきょろきょろしている間に、ヴァージルはだいぶ先へ歩いて行ってしまっていた。 不思議なことだらけのこの街で、ヴァージルを見失うなんて恐ろしい!! 二人は慌てて後を追いかけた。 「ヴァージル!!」 「ヴァージル〜〜!」 立ち止まってくれたヴァージルのマントの端を、しっかりと握りしめる。 「精霊界だからなの…?」 「………………?」 答えはなかったが、たぶんそうなんだろう。 精霊界。 不思議、不条理、なんでもあり。 エリックとアリエスは、深く心に刻み込んだ。 裏通りから下水道、商店街、地下鉄のホーム、歓楽街………歩いているうちに、次々とあたりの雰囲気が変わる。ヴァージルを先頭にした一行は、いつの間にか住宅街を歩いていた。 「……あ…………………」 突然、ヴァージルが立ち止まった。 すぐ後ろにぴったりついて歩いていたエリックとアリエスは、その背中にぶつかってしまった。 「ど、どうしたの……?」 「……泣いてる………聞こえるよ………」 ヴァージルは、耳を澄ませるように、空気のにおいを嗅ぐように、辺りに視線をさまよわせた。 「こっち………」 再びふわりと、でも今度ははっきりと方向を定めた確かな足取りで歩きだす。 やっぱり、精霊界って不思議だな……。エリックは思った。ヴァージルがこんなに頼もしく見えるなんて。 ちょっと小走りにヴァージルの後についていくと、そこは高台の高級住宅街だった。 「あれ? こっち行くと………」 スタスタと歩いてきたヴァージルが、速度を落とした。 二人には見覚えがある。そこはウェストン家の長い塀沿いの道だった。 「ここ、セシルちゃんの家じゃない……!」 角を曲がると、レンガ造りの表門が見えた。 ウェストン家の表門は、とにかく大きい。高さはヴァージルの身長の2倍くらいありそうだし、馬車が3台並んで通り抜けられそうなくらいの幅がある。 見上げるほどのその鉄製の門扉を、2本のレンガ造りの門柱が支えている。 その根元はやはりきれいに整えられた植え込みになっていて…… 「…………あれ? 今、何か聞こえなかった?」 立派な門と、その向こうの庭園にみとれながら、ヴァージルの後ろにくっついて歩いていたアリエスが、ヴァージルのマントの裾を引っ張った。 「……うん………近くにいる…………」 聞こえた? 近くにいる? ……やっぱり、セシルが!? あいにくエリックには何も聞こえなかったけれど、考えられるのはセシルしかいない。 何者をも見逃すまいと、探偵モードであたりを見回してみた。 ……相変わらず精霊界の倫敦は静かな霧に包まれたままで、人はもちろん、精霊らしきものの気配すらない。 「アリエス、聞こえたって、何が?」 「うう〜、なんとなくよ〜。あたしにもわかんない〜」 あてもなくきょろきょろする二人のそばを、ヴァージルがふわっと通りすぎた。 「……こんなところに………いたんだね………」 長身をかがめて、植え込みの中からひょいとヴァージルがすくい出したものは。 「…ね、猫………?」 「うそぉ、セシルちゃんじゃなかったの〜!?」 大人しくヴァージルの腕に抱かれているその猫は、まだ仔猫のようだった。 白に灰色の混ざった、少し長めのふわふわの毛。 眠たそうにゆっくりと開かれた眼はきれいな青色。 「あら、首輪してるわ、この子……」 「これ……どっかで見たような気がしない……?」 白い仔猫の首には、金のリボンが首輪のように巻かれている。 そして、白い猫、金のリボンとぴったりのカラーリングで、半透明の緑色の石のブローチが止められていた。 「このブローチ、もしかして、セシルちゃんの……!?」 「そうだよ!! 襟のところにリボンといっしょに止めてたよね!」 「じゃあ……じゃあセシルちゃんは……」 二人はおそるおそる、仔猫の顔をのぞきこむ。 「……ぅにゃぁ〜?」 二人に話し掛けるように小さく鳴いた仔猫の頭を、ヴァージルの手が優しく撫でた。 「……この子……猫に見えるけど、本当は猫じゃない……。この世界に来て、歩き回っているうちに、姿を保てなくなってしまったんだね……」 「じゃあやっぱり!」 「この子がセシルちゃんなのね!?」 こく、とヴァージルはうなずいた。 「精霊界は、なにもかもが不安定で……その代わり、思ったことが形になって現れるんだ……。……この子は、自分の本当の姿は分からなくなってしまったけれど……きっと、『帰りたい』……って、とても強く思っていたんだね……」 「─────────!!」 万博へ行きたいと、家出までしてきたセシル。 地下鉄や中華街や、いろんな知らないものを見てみたいとはしゃいでいたセシル。 「とーぶん家になんか帰ってやるもんか、って言ってたのに……」 だから二人は、この精霊界の倫敦の街のあちこちを探し回ったのだ。 でも。 「帰りたかったんだ、お家に………」 アリエスが、ぽつりとつぶやいた。 「……帰ろう……倫敦に。……ぼくたちの街に………」 少しうつむいてしまったアリエスの髪を、さっき仔猫にしたのと同じように優しく撫でて、ヴァージルが静かに言った。 その言葉が合図だったみたいに、辺りの景色が急に淡くなった。 それは倫敦の街が濃い霧に包まれる時に似ていたけれど、違うのは、地面が溶けていくような頼りない感覚……… そう、まるで、夢から覚める時のような……。 ────でも、夢から覚めたって、倫敦の街はいつだって霧に包まれていて……たまには幽霊や精霊なんかがいたりして…あんまり変わらないんじゃないのかな……。精霊界の倫敦と……夢を見ているのと…………。
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