『海より出づる』




ミドルポートに停泊したユーラスティア号は、久しぶりに静かな夜を迎えていた。騒ぎ好きの連中は、今頃港の酒場で宴会を繰り広げているに違いない。船はだいぶ沖に停泊しているので、港の明かりが少し遠くに見えるだけで、陸の喧騒は届かない。宴席の賑やかさが、嫌いではないが苦手なヘルムートは、何とか誘いを断って、一人甲板で静寂をかみしめていた。
せっかくだからお前も飲んどけ、と出掛けにハーヴェイが押し付けていった果実酒はなかなかのもので、あまり度数の高くない柑橘系のほのかな香りは、今夜の淡い月の色にぴったりだった。

クールークから見ればかなり南方の群島諸国の海の色は、ヘルムートの見慣れた故郷のそれとはあまりにも違っていて、毎日眺めていも見飽きることはなかった。
が、わずかな星と、淡い月の光の下では海の色は暗く、深く、南方の暖かい風がなければクールークの海と同じに見えた。
……波の音も、同じだろうか。
目を閉じてよくよく聞いてみるが、かつて四六時中聞いていたはずの波の音と同じなのか、それとも違っているのか、どうしてもわからなかった。
そんなに長いこと離れているわけでもないのに、思い出せないなんて……。
自分はそんなに情の薄い人間だったのかと、こっそり溜息をつく。
目を開けて再び空を見上げると、ブリッジの上のテラスで同じように月を見上げている人影があった。その人影は、ヘルムートが見ているのに気付いたのかふと振り返り、こちらに向かって手を振った。
そして一足飛びに階段を駆け降りて、ヘルムートの傍へとやってきた。赤いバンダナが少し遅れてふわりと肩に落ちる。

「ヘルムート! 一緒に行かなかったんだね。……そんな気はしたけど」
「お前こそ、久しぶりのミドルポートだというのに留守番か?」
「まあね。行ってもお酒飲むわけじゃないし、ヨッパライの相手は大変だし」
少年はミドルポートの灯りを見遣りつつ、手摺りにもたれかかる。
「飲まない……のか?」
確かに、酒の味を理解するにはまだ少々早いかもしれない。
「飲まないっていうか、飲めないっていうか……。実は、エレノアさんに初めて会った時に……」
少々言いにくそうに、少年は軍師エレノアを仲間にした時のいきさつを話してくれた。面会前に浴びるほど酒を飲まされ、目が覚めたら覚めたで飲み直し、次の日は酷い二日酔いでとても苦しい思いをしたと。しかもそれが、少年の飲酒初体験だったそうだ。
「はぁ………」
「……それで、もうお酒はこりごりだって……。なのにみんな、リーダーなら酒くらい嗜んでおけってうるさいんだ。今日だって誘いを断るの大変だったんだよ。……あ!  笑ってる!?」
アルコールをすすめられるたび必死で断る少年を想像して、ヘルムートは苦笑する。やはりあの軍師はフツウではない。初めての酒の味は、さぞかし苦かったことだろう。
だが、これならどうだろうか。
「え……これ、お酒………?」
あからさまに表情を硬くする少年に、今まで自分が飲んでいたグラスを手渡し、中身の僅かなそれに瓶から果実酒を注ぎ足してやる。
「これはアルコールもきつくないし、果実酒だから甘くて飲みやすいと思うが……」
「…………………………」
恐る恐る、少年はグラスを口に近づける。傾けられて縁に届いた中身をぺろりと舐めてみてから、一口、口に含む。目を閉じた少年の喉が、こくん、と鳴った。
「……美味し……!」
緊張が解けて、少年の表情が崩れる。ふう、と息をついてから、もう一口。
「うん……これなら、平気かも……。エレノアさんと飲んだのと全然違うよ!」
少年の嬉しそうな様子を見て、ヘルムートはハーヴェイにこっそり感謝した。いかにも質より量を取りそうなあいつにしては、気の利いたものを寄越してくれたものだ。

「自分に合ったものを、過ぎない程度に嗜むのがいいってことだな」
それに加えてその席が楽しければなお良いだろう、と、少々説教臭いと思いながら付け足してしまった一般論は、やはり蛇足だったようだ。
「うわ、なんだかオトナっぽいこと言ってる〜。でもさ、ヘルムートこんなところで一人で飲んでたってことは、もしかしてヤケ酒とか涙酒だったんじゃないの〜?」
「……お前は、どこでそんな言葉を………」
口の減らない少年の言葉をヘルムートは受け流そうとしたが、少々図星だったのを悟られてしまったらしい。
「月を見ながら飲むのは、月見酒……。でも、それだけじゃなかったんでしょう?」
「……まあ、少々感傷的にはなっていたかもしれないが………」

グラスをヘルムートの手に返しながら、少年はふふ、と笑った。
「いつもここで海を見てるせいかな、ヘルムートのこと、みんなが何て話してるか知ってる? 月から落っこちたウサギが、故郷に帰りたがって、月を見上げては泣いているみたいだって」
「う、ウサギだと!? しかも、泣いているだなんて……!」
確かにこの後部甲板はあまり人通りもなくヘルムートの気に入りの場所だったが、そんな風に言われていたとは、まったく心外だ。
だから、喩えだってば。少年はそう言って苦笑する。
「でも、わかる気はするんだよね。だってヘルムート、みんなよりだいぶ色白いし、目の色だって……」
「……………………」
クールークの人間は、気候のせいか群島諸国の人々に比べて色素が薄い。中でもヘルムートは、銀の髪のせいでそれが際立って見えるようだ。そしてその淡い茶色の瞳は、角度によっては紅く透けて見える……。時々見られるその瞳の色がとても好きだと、いつか少年は言っていた。月の光の中でも、その色は現れるのだろうか。今も少年は愛おしげにヘルムートの瞳をのぞき込んでいた。

「帰りたいって思ってるのは嘘じゃないでしょう?生まれ育った街とか、会いたい人とか」
「…そう、だな………」
そう言われてすぐに、懐かしい街路や人の顔が思い浮かぶ、それが郷愁以外の何だと言うのだろう。戻りたくても、もう戻れない………そういえば、この少年も確か、以前にそんな憂き目に遭ったと聞いたことがある。
「お前も、ラズリルを追放されて、やはりそう思ったのか?」
「うん……そうだねえ………。ラズリルは確かに故郷みたいなものだけど、やっぱりちょっと違うから…」
「ラズリルの出身ではなかったのか?」
「生まれたのは……たぶん違う。ラズリルの人たちはみんな知ってることなんだけど……僕は、海で拾われたんだ。まだ1歳にもならない頃、木箱に入って海を漂ってたんだって。それを拾ったのが、ラズリル領主の船で……」
いつもと違ってあまり歯切れの良くない調子で、少年は自分の生い立ちを語ってくれた。どんな風に育てられたかを聞いて、ヘルムートは少年にそんな話をさせてしまったことを後悔する。

「……すまない……。まさかお前が、そんな……」
「謝ることないってば。別に秘密にしてるわけじゃないんだから」
何でもないことのように笑って見せながら、少年は床に置いてあった瓶を取り上げ、ヘルムートの持っているグラスに果実酒を注ぎ足した。そしてグラスを自分の手に取って、また一口。
それこそヤケ酒ではないんだろうかと、思わず勘ぐってしまう。そうでなくても、アルコールに不慣れな少年が少々心配になったが……
「それに、今はそれでよかったと思ってる。ラズリルを出てこの船に乗ってから、僕はこの海で生まれた、この海全部が僕の故郷なんだって、そう思えるようになったから」
海を背に、両手を広げて少年は晴れやかに笑った。
背負うものがこの故郷の海なら、少しくらい大きくても重くても大丈夫。そう言っているようだった。

「あ!」
いきなり少年はくるりと半回転、グラスの中身を海に向かって振りまいた。月の光を受けて一瞬きらめいた滴が海へ落ちていく。
「僕の海に乾杯!!」
そして少年は手摺りにもたれかかり、そのまま崩れるように床に膝をついてしまった。
「あ……おい!?」
ヘルムートが慌てて身体を支えてやると、グラスがごとんと床に落ちた。
少年はもう、寝息を立てていた。
「…酔って、いたのか……?」
そんなに飲ませたつもりはないんだが、とヘルムートは少々反省する。もたれかかってくる少年の体勢を立て直し、自分も床に座り込んで膝枕にしてやった。
「…………」
寝息は静かなままで、身動きの気配すらない。閉じられた瞼の下の海色の瞳は、今は何か夢を見ているのだろうか……。

床に転がっているグラスを拾い上げ、まだ中身の残っていた瓶を引き寄せて、僅かになったそれを最後の一滴まで落とし切る。いくら軽いとは言え、けっこう飲んだものだ。
「僕の海……か」
なかなか大きいことを言ってくれる。だが、考えてみれば、1歳にも満たない赤ん坊が木箱で海を漂流してよく助かったものだ。母なる海に愛されていると、言えなくもないだろう。
そうして、海の祝福を受けた者が、何と呼ばれるか………

「……『海神の申し子』…………」
ヘルムートは、上官として、人間として、この世で最も尊敬する彼の人の二つ名をつぶやいた。故郷クールークの海そのままの峻厳な雰囲気を纏う彼の人トロイと、群島諸国の海と同じ色の瞳をした少年……二人に似たところなど欠片もなかったが、その二人ともに惹かれてしまったのは、何かの予感だったのかもしれない。

いずれ二人が戦場で雌雄を決する時が来るだろう。
その時、自分はどうすればいいのだろう…………。



願わくば、海に生きる全ての者に祝福を……。
そう強く、思わずにはいられない。





静かな夜に、少年の安らかな寝息と月の光。
彼の人の夜も安らかでありますように……と、ヘルムートは故郷の海に思いを馳せながら祈るのだった。



 

《END》 ...2004.11.25



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