「彼女の夢は」




「悪夢の匂いがする」

蛭孤のその突然の言葉に、彼の座るテーブルの脇を通り過ぎようとした 霜霞(みづき)は足を止めて振り返った。

「あら……やっぱりわかってしまうのね」

図星のようだったが、動揺はしていない。

「さすがは蛭孤……と言いたいところだけど、たいした悪夢ではないのよ。誰かが追いかけてくる……私は走って逃げている……ただそれだけ。 別に珍しくもないでしょう?」

「そうだね……。でもさ、とても美味しそうな匂いがするんだよ……どうしてかな?」
「どうして……って、本当にそれだけなのよ。あなたが興味を持つような 物語や人物なんて、何もないはずだわ」

首を傾げ、心底不思議そうに霜霞は問うた。
その様子を見て、蛭孤は唇の端だけで微かに笑う。

「見てみたいな。君の悪夢を」
「……食べるの?」

いつになく積極的な蛭孤の様子に興味をそそられたのか、霜霞は彼の向かいに 腰をかけた。「依頼人」の定位置である。

「食べるかどうかは、見てからにするよ。……いい?」
「ええ……そうね。本当は悪夢なんて、見ない方がいいんだもの」

くす、と微かに笑い、蛭孤は杖を構えた。
「それじゃ、いくよ……」



「さあ眠れ  しばし現に  お別れだ」



────こんなこと、ここに蛭孤が現れてから初めてだわ……

数え切れないほどその言葉を聞いてきた霜霞だったが、それが自分に向けて 唱えられるのは初めてだった。








程なくして、彼女の意識は、   闇に、、、、、

  
                 

                       ────  ……… …



















「ここが私の悪夢の中なのね……。蛭孤はどこかしら……」

見覚えがあるようで、ないような景色。 例えて言うならいつも通い慣れた街路の風景を薄めて画布に張り付けたような、 奇妙に現実感の欠落した手触り。

「夢の中なんだから、現実感なんてないのがあたりまえなのよね」

そう独りごちて、霜霞はとりあえず歩きだした。
夢の記憶は曖昧だけれど、このところ見ている悪夢も、こんな始まり方だった ような気がする。

誰もいない街を、宛もなく歩く……と、幾つ目かの角を曲がったところで、 大きな通りの向かい側に初めて人が現れた。
この人気のない街で他人と遭遇した事実に、霜霞の胸は躍った。
……が、その人物が霜霞の方へと一歩踏み出したとたん、訳の分からない 恐怖が彼女を襲った。

────逃げなくては!!!

疑問を挟むこともなくその瞬間に、霜霞は身を翻して今し方抜けてきた路地へと 走り込んだ。
「……そうだわ、いつも、こうやって、   逃げて………」

どうして逃げなくてはならないのか。
いつもの悪夢の中では決して浮かんだことのないその疑念を彼女が認識した時。

「……!!  行き止まり………!?」

たしかいつもは、走って逃げている最中で目が覚めていたような気がする。
これは、その続き……、その先の物語と、人物…………?

底知れぬ恐怖を感じながらも、霜霞は振り返ってしまった。
夜ごと彼女を追いかけ、そして今追いつめているその人物は、どうやら若い男性の ようだった。質素な深緑の絣の着物を身に着け、帽子を目深に被っている。

ざり、と砂利を踏みしめ、男が近づいてくる。
霜霞は思わず、壁を背に座り込んでしまった。

────蛭孤……何処にいるの!? 助けて……………!!

恐怖で声も出ない霜霞の前に、男が立ちはだかった。
「………………!?」
夜ではないし、逆光でもないのに何故かそれまで鮮明に見えてこなかった男の顔が、 急にはっきりとしてきた。
「……あ、梓………?」
恐怖と驚きが、瞬時に入れ替わる。
「みづき………」
忘れもしない、5年前のあの日、貘に身体をとって変わられ(?)、2年前に姿を 消した霜霞の兄。「貘」でもなく「蛭孤」でもない梓が、霜霞の目の前にいた。

「梓だったの、私を追いかけていたのは………?」

霜霞の前に膝をつき、そっと頬に手を伸ばしてくる兄は、霜霞の記憶の中の彼と 寸分違わず、どこまでも柔らかく優しい、でもどこか儚げな笑みを浮かべていた。

「梓、兄さん……」

切ない、愛おしい、懐かしい、だいすき……様々な温かい感情が、一瞬で霜霞の 裡をかけめぐる。梓の表情につり込まれるように、霜霞も微笑った。


「みづき……」
愛おしげに妹の名をつぶやいた梓の手が頬に触れ、そのまま下へと移動したかと思うと、いきなり両手でもって少女の細い頸へと食い込んできた。


「ぐ……ぅっ……………!!」

────梓……どうして…………!?

その手を外そうと、霜霞の身体は反射的に抵抗をしたが、すぐに力を失ってしまった。
「ぅ……う…………」

うっすらと開いた霜霞の目に映ったのは、愛しいたった一人の兄の顔。朦朧とした彼女の意識には、もはや自分の息の根を止めようとしている兄への疑問や抵抗はなかった。



────梓に殺されるのなら、、、  わたし……  それ、でも  ────







「そこまでだ」

ばしっ、と鋭い音とともに、少女の頸にかかっていた圧力が消えた。
「…………………  ?」

うっすらと霜霞が目を開けると、右手を押さえてうずくまる兄と、見慣れた不思議な 服装の少年が見えた。

「……蛭孤………」

「やっぱり、この人だったんだね」
いつも通りの淡々とした口調、感情の読めない表情で、蛭孤は動かない梓に向けて 杖を構えた。
「………!?」
ある予感に、とっさに霜霞は重い体を無理に起こす。
「蛭孤、まさか……!?」
「これが、君の悪夢の核だよ。君の悪夢の元凶……」

杖の先端に填め込まれた青い石が光を増し、それに呼応して梓の身体がゆらりと 半透明になった。
「やめて蛭孤、梓を、兄さんを消さないで………!!」

梓の姿をしていた「それ」は、半透明な薄緑色の霧のようになって蛭孤の杖に吸い 込まれていった。
「駄目だよ霜霞、これは、君の兄さんじゃない……」


「…………あずさ…………………」





霜霞の意識は再び、闇に沈み込んでいった。

“核”を消された霜霞の悪夢の世界は、徐々に形を失い、薄く白い光にとって代わられていく。じきに霜霞も目覚め、現実の世界へと戻るだろう。
溶けてゆく世界の中、蛭孤は力を失った霜霞の身体をそっと抱き起こした。

「追われる夢は、追われたい願望の裏返し……。君はまだそんなにも、あの人の ことを追い続けているんだね……。
…でも………」

少年の手が、そっと、少女の頬に触れた。

「もうそんな必要はないよ。悪夢は僕が戴いてしまった。
それに………」

少年の唇の端が、微かに上がる。

「僕はここにいるんだから……………。」









「  さあ、目覚めの時間だ ……   、、、。」






《END》 ...2002.11.8




 


現在のところ、単行本1巻(1〜7話)と、12、13話しか読んでません。
単行本未収録の部分に「妄鏡堂」の話があるらしく、そこで蛭孤の 正体とか明かされてたらどうしよう…。
とりあえず12話を元に妄想してみました。蛭孤と梓はイコールでは ないのかな。蛭孤だと弟みたいな感じで、梓は兄さんで…霜霞さん てば両対応でオイシイとこどりですねvv





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