ホース・ウィスパラー

 

 

 辺境の村に翼の生えた馬が産まれたという知らせがあった。普通の馬の群れの中に突然変異で産まれてくるそれは天馬───ペガサスと呼ばれ、吉祥の生き物として喜ばれた。仔馬の頃は小鳥ほどの翼が鬣に紛れているくらいだが、長じてからは明らかに異形の美しいそれを羽ばたかせ空を舞った。
 ただ珍しいというだけではない───人を乗せて空を飛べば、戦においては重要な戦力になる。それゆえ実用的な意味でも珍重されたのだ。
 天馬に乗るのは王か、国を守る要の騎士か……いずれにしても選ばれた者。三十年に一度あるかないかというペガサス誕生の知らせは久し振りで、十三歳を迎えた王子がそれを聞くのはもちろん初めてのことだった。

「そろそろ視察に行かなければと思っていたが、やはりお前に行ってもらうことにしよう。良いな?」
「はい、父上」
 王都から遠く離れた辺境の村へは陸路で数日もの旅になる。平時とは言え王が長いこと玉座を空けることは憚られるし、成長したペガサスが活躍するのは次の王の時代になるだろうから。そんな理由で王子ナッシュが仔ペガサスの様子を見に行くことを命じられたのだ。
「わたくしもお供します! いいでしょう、父上?」
 側に控えていた双子の妹姫・メラグがすかさず声を上げた。双子ゆえの絆の強さか、それとも単に兄離れができないだけか、メラグは常にナッシュと一緒にいたがった。
「お前の足には辛いんじゃないのか? 馬に乗ってたって何日もかかるっていうし……」
「大丈夫です! 私だって昔みたいに病弱じゃないし、それに……そう、ペガサスも清らかな乙女の方が嬉しいに決まってるわ」
「それはペガサスじゃなくてユニコーンなのでは……」
 もとより父王に反対する気はなかったらしい。
「……まあ、ナッシュが一緒なら心配ないだろう、メラグも、気を付けて行ってきなさい」
「はい!」
 満面の笑みで頷く妹姫にやれやれ、と溜息を付くナッシュだった。



*************
 ポセイドン連合国は、中核となる海上都市を抱えるナッシュの国と、その周辺の海域に散らばる群島から成る。大小合わせて二十ほどの島々は領主や島長を頭とした自治を保っているが、自警団以上の戦力を単独で持っているものはない。連合国として同盟を組み、非常時には連合軍を組織して外敵に当たっていた。
 一方で内陸部は奥に行けば行くほど山が険しく、隣国も友好国とは言え行き来は不便で国境に近い村が細々と交易をしているくらいだった。

 山間を縫うように曲がりくねりながら続く街道を行くこと七日、先頭を歩く共の者がナッシュとメラグに声を掛けた。
「見えてきました! あれがペガサスがいるという村ですよ!」
 馬上から身を乗り出して目を凝らすと、峠の木々の間に明るい光と草の緑が垣間見えた。と、緩く続いた坂道が急に途切れ、眼下に緑に覆われた盆地が姿を現した。
「……まあ……!! こんなに広い平地が、こんな山奥にあるなんて……!」
 道中ずっと坂道と山と森しか見てこなかったメラグが感嘆の声を上げる。それはナッシュとて同じこと。海ばかりを見て育ったナッシュにも山地の旅は新鮮なことばかりだったが、この景色はまた格別だった。
 山に囲まれた盆地には緩やかな起伏の丘と一筋の川、そして家屋がまばらに点在している。箱庭のようにも見えるその景色に雄大さを添えているのが背後に聳え立つ険しい山脈だった。夏も近い季節だというのに山頂は雪に白く染まっていて、ナッシュたちが歩いてきた山とはレベルが違うことを厳然と告げていた。
「あの山脈の向こうは隣国になります」
 ここよりもう少し東の村の出身だという共の者の話では、谷あいを縫うように細い街道が通されて、一応関所も設けてあるらしい。
「通る者はそう多くありません。商売をするにしても、大量の荷物を通すことができませんから」
「なるほど……隣国の使者もめったに来ないわけだ」
 むしろ年に一度の挨拶ですらよく行き来しているものだと感心する。
 と、村に続く峠道を、王子の来訪を知らせに行っていた先触れの者が戻ってきた。
「ご苦労だった」
「はい! 村長の屋敷に滞在できる準備は整っているようです。ただ……」
「何かあったのか?」
「少し村の様子が……気のせいだとは思うのですが……。予告していたより到着が早まったからかも知れません」
「そうか……。気を付けておく。ともかく村へ降りよう」

 つづら折れの山道を降りていくと、次第に村の様子がはっきりと見えてきた。緑の平地となだらかな丘は一面の牧草地で、放し飼いの馬たちがのんびりと草を食んでいる。馬を育て、出荷することで生計を立てている村なのだ。
「城に納められる軍馬も半分ほどはこの一帯からなんですよ」
「そうなの。それじゃこの子の故郷もこのあたりなのかしら?」
 ナッシュと馬を並べて歩くメラグがずっと道中を共にしてきた栗毛の馬の鬣を撫でると、若い雌馬はさあどうでしょう、という風に首を傾げた。
「今までも名馬を多く出しているので、ペガサスの他にもいい馬がいるかもしれませんね」
「それは楽しみだな」
 やがて道の先に十数人ほどの人だかりが見えてきた。村の者たちの出迎えらしい。初老の男が進み出て、村長だと名乗った。
「ようこそお越し下さいました、ナッシュ王子殿下、メラグ王女殿下」
「少し遠いが綺麗なところだな。ペガサスが生まれたと聞いてからずっと楽しみにしていた。世話になるぞ」
「は、はい。馬の他には何もないところですが、どうぞゆっくりしていってください」
 ペガサス、と聞いて一瞬村長の目が泳いだような気がした。……何かあるのでは、と言われていた先入観かも知れないが。
「………………」
 気のせいだったならばそれで良い。だが従者や村長の思わせぶりな態度が気になったままでいるのは嫌だった。
「早速で悪いがペガサスを見たい。案内してもらえるか?」
「い、今すぐでございますか……? 長旅でお疲れなのでは……」
 村長の顔にはっきりと動揺が表れ、集まった村人にもざわめきが起きる。
「今すぐだ。そのために来たんだからな。……すぐでは都合の悪いことでもあるのか?」
「……! そ、そんなことは……わかりました。ご案内いたします……」
 やはりペガサスに何かあるらしい。しかし見せられないわけではない……? 一体何だというのだろう。馬を降りて供の者に預けると、同じくメラグも従者の手を借りて馬から降りる。警護の兵と共に、先に立って歩き出した村長に付いて行くと、やがて柵で広く囲まれた牧草地に案内された。
 数頭の大人の馬と、まだ脚も身体も細い仔馬たちの群れ……その中に白い仔馬が見えた。
「あれが……?」
「ええ。あの一頭だけ白い仔馬が、ペガサスです」
「本当なの……? 羽は見えないわ?」
 柵に手を掛け身を乗り出そうとしたメラグを村長が止めた。
「いけません、柵を越えないでください…! 近付いては危険です!」
「なんだと……!?」
 思い思いに草を食んでいた馬たちはナッシュの一行に気付いて、近寄ってきて甘える素振りを見せるもの、気にせず食事を続けるもの様々だったが、白いペガサスの仔馬だけは様子が違っていた。こちらを見据えて頭を低く下げ、両耳を後ろに伏せて明らかに警戒の仕草を見せている。
「近付けば蹴られるか、全力で逃げられるかのどちらかです……我々村の者も近付くことができないのです」
 村長が目配せをすると、敏捷そうな若者が柵を越えてそろりと白い仔馬に近付いていった。固唾を呑んで見守っていると、耳を伏せこちらを睨み付けたままじっとしていたペガサスは、若者が数歩先まで近付くと不意に前脚を高く蹴り上げ、身構えた若者に威嚇のいななきを浴びせてからあっという間に牧場の端まで走り去ってしまった。
「驚いたわ……。人に馴れていないの?」
「馴れていないといいますか……親離れはしているし他の馬とは普通に接しているのに、極端に人間嫌いのようで全く人を寄せ付けないのです。ペガサス特有のことなのか、単にそういう性格だからなのかわからず扱いかねている状態です……。申し訳、ありません……!」
「……なるほど……」
 村の者たちの様子がおかしかったのはこのせいだったのだ。人嫌いを矯正しようにもペガサスを手荒く扱うことなどできない。人を乗せるどころか近付くことさえできないのであれば、王都に差し出すことも叶わない。村長は今にも土下座しそうな勢いだった。
「メラグはどうだ? 何か聞こえたりは……?」
 妹姫メラグには生来不思議な力が備わっていて、未来を予知したり海神の声を聞くことがあった。それゆえ巫女姫とも呼ばれる彼女なら、天馬とも心を通わせることができるのではないか……そう思ったのだが。
「いいえ……私にも無理だわ。人間は嫌い……それだけしか伝わってこない」
「そうか……」
 三十年に一度生まれるかどうかというペガサスを扱ったことのある者は国内にいるだろうか。父王にどう報告したものか、考えを巡らせるナッシュに、村長がおずおずと声を掛けた。
「あの……王子殿下。我々も多少の対策をとるつもりでおりました。殿下の到着が予定よりお早くなったので間に合わなかったのですが……」
「何だ?」
「近隣の村に、どんな馬とも心を通わせると噂の少年がいるのです。その少年を呼び寄せて、まずはペガサスに近付くところから……と思っておりました。使いの者を遣ったのが五日前、上手くいけば今日か、明日くらいには村に来ると思うのですが……」
「そうか。ではその者の到着を待つことにしよう」
「馬と心を……。そんな不思議な力があるのね」
「ええ。聞いた話では、ほんの一言ふたこと話しかけるだけで、どんな暴れ馬も大人しく人を乗せるようになるとか」
「それが本当なら面白い。ペガサスにも有効なのか?」
「そうであることを祈るのみです……。ペガサスとはいえ親は普通の馬なので、あるいは……」
 村長は気の毒になるほどひたすら額の汗を拭い続けている。ペガサスが産まれたという喜ばしい出来事が一転して不祥事になりかねないのでは無理もない。ペガサスについては分からないことの方が多い、仕方ないことだと慰めの言葉をかけ、ひとまず村長の屋敷に戻ることにした。



************
「……ナッシュ、起きてる?」
 朝方、控え目に扉の外から声がした。窓の外はまだ暗い。
「ああ、起きてる」
 まだ夜明け前だというのにふと目が覚めてしまったのだが、どうやらメラグも同じだったらしい。扉を開けると、きちんと服を着込んだメラグが息を潜めて囁いた。
「やっぱり! 私が起きたんだから、ナッシュも起きてるはずだと思ったの。ねえ、ペガサスを見に行きましょうよ。今なら二人だけで見に行けるわ。あの子も村の人が一緒にいるのとちょっと違うんじゃないかと思うのよ」
 まだ誰も眠りに就いているであろうこの時間。王都を出てからずっと供の兵たちと行動してきたが、久し振りに二人だけで気兼ねなく外に出てみたい気持ちもあった。
「……わかったよ。行ってもいいが、危ないことはするなよ」
「ふふ、そうこなくっちゃ! 早く着替えてきて。行きましょう!」
 小声ではしゃぐメラグに待ってろ、と告げて手早く着替えを済ませる。二人で忍び足で廊下を抜けて裏口の扉を開けると、夜明け前の冷気がどっと押し寄せてきた。夏も近いこの季節だが、高原の気候は王都とは全く違う。旅の道中にも使ってきたマントを、ナッシュはメラグにも手渡した。
「夜明け前が一番冷える。風邪なんか引いたら面倒だからな」
「あ……ありがとう」
 すっぽりとマントにくるまって、二人でペガサスのいる牧場へ向かった。半分の月が藍色の空にかかり、東の山の端が夜明けの水色に染まり始めている────辺りはしんと静まり返っているが、新しく始まる一日を察して大気が、山が、草原がざわめいているような気がする。

 土を踏み固めた道をしばらく歩いて行くと、
「……、誰かいる……」
 半歩後ろを歩いていたメラグがナッシュのマントを掴んだ。昼間ペガサスを見た牧場の柵に、何者かの人影がある。
「こんな時間に……村の者か?」
 ナッシュたちと同じように防寒のマントを羽織り、柵に手を掛けて馬の群れを見ているようだ。その視線をたどると、夜明けの薄明かりの中に白い仔馬が浮かび上がった。
「ペガサスを見ているの……?」
「そのようだな」
 用心しながら近付いていくと、相手もナッシュたちに気付いたようで、柵から手を離してこちらに向き直った。
「おはよう……で、いいのかな。まだ暗いけど」
 挨拶をしてきたその声は意外にもまだ少年のものだった。近付いて見れば背丈も年の頃もナッシュとあまり変わらないように見える。
「ふふっ……おはよう。ほんとに早いわね。あなたもペガサスを見に来たの?」
 少年と知って安心したのか、メラグが気軽な調子で声をかけた。
「うん。早くペガサスに会いたいと思っていたから、陽が昇るまで待ちきれなくて。あの子もほら、こっちを見てる」
 少年はまた柵から牧場を覗き込む。メラグに釣られてか気安い口調で返事をしていた、こちらが王族だと気付いていないのだろうか。太陽はまだ険しい山の向こうだったが、屋敷を抜け出した時よりだいぶ明るくなっている。暗くて顔が判別できないわけではないだろう。そういえば昨日ナッシュたちを出迎えた村人たちや見物に集まってきた者の中にはいなかったような気がする。
「お前、名前は?」
「僕はドルベ。ゆうべ遅くに村に着いたんだ。ペガサスに会いに来た……って言ったら、わかる?」
「まあ……! それじゃあなたが馬と話ができるっていう?」
「話っていうか、気持ちがわかるっていうか……まあ、そんなところかな」
 はにかみながらドルベと名乗った少年は言う。辺境の村の子供にしては粗野な様子が欠片もなく好感が持てた。
「俺はナッシュ」
「私は妹のメラグ。私たちも昨日この村に来たばかりなの。ペガサスを見に来たんだけど、近付くことはできなかったわ。あなたが馬と話をするって聞いて楽しみにしていたのよ」
「へえ……君たちもこの村の人じゃないんだね」
 よそ者ならばナッシュたちの正体を知らないのも頷ける。王族が視察に来ていることは告げられていないのだろう。
「山を越えてくるのは大変だったよ! まだ雪も少し残ってたし……ペガサスならきっと一飛びなんだろうけどね」
「え……? 雪……山?」
 ドルベの言葉に、メラグが思わず頂に白く雪を残す国境の山を見上げた。自分と同じよそ者のナッシュたちと、旅の苦労話を分かち合おうと思ったのかも知れないが。
「お前……この国の者じゃないのか」
「え……? うん、あの山を越えた村に住んでる」
「うーん、そうか……」
 軍事機密……と言う程のことでもないだろうが、ペガサスは間違いなく将来軍役に用いられる。それを、敵国でないとはいえ隣国の者に、こうも簡単に見せてしまって良いものだろうか。
 今ようやく挙動不審な村長の態度に全て納得がいった。ペガサスに近付けないことだけではない。その対策として講じたのが、この隣国の少年だったのだ。
「近隣の村とはよく言ったものだな……」
「確かに、地図的にはお隣に違いないものね」
 ドルベが隣国の者と知って驚いたナッシュとメラグだが、当のドルベは首を傾げている。
「あの……何か……?」
「……いや、驚いただけだ。馬と話ができる少年というだけで、山の向こうから来るとは聞いてなかったから」
「そう、なら良かった」
ほっとしたようにドルベは笑う。
 その時、前方に連なる国境の山の東の端から太陽が僅かに顔を覗かせた。一筋射した陽の眩しさに目を細めたナッシュとメラグだったが、ドルベは不意に牧場を振り返った。
「ペガサス……!」
 ドルベの声に手のひらで朝日を遮りながら牧場に目をやると、山の端から射す光に向かってペガサスが首を伸ばし、その背に負ったガチョウほどの大きさの白い翼を羽ばたかせていた。
「羽が……本当に生えているんだな……!」
「綺麗……」
 初めて見たペガサスの翼に二人で驚嘆の声を上げた。昨日は威嚇されて逃げられただけで、じっくりと見ていられなかったのだ。
 身体に比べて翼はずいぶん小さいのでまだ飛ぶことはできない。それでも、いつかそこへ向かうことを知っているかのように、太陽を見上げ小さな翼を羽ばたかせている────
「───おい、ドルベ!?」
「危ないですわ!」
 いつの間にか柵を乗り越えて、ドルベがふらりとペガサスに向かって歩き出していた。ペガサスはもう翼を畳み、耳を低く伏せて警戒の色を見せている。
「大丈夫……大丈夫だよ……」
 ペガサスに対してなのか、背後のナッシュたちに言ったのか……低く呟いて、ドルベはゆっくりと歩を進める。肩からマントが滑り落ちるのにも構わずペガサスに近付いていくドルベを、ナッシュたちは固唾を呑んで見守ることしかできない。
「ああ……本当に、綺麗だね─── ……、……………… ─── …」
 ペガサスに向かって、何か話し掛けているようだ。
「話を……してるのかしら……?」
「…………………………」
 こちらに背を向けたドルベの表情は見えない……が、ペガサスの様子が変わるのがはっきりとわかった。
 不思議そうに首を傾げ、警戒を薄れさせる。ドルベの言葉をもっとよく聞こうと耳を立てる。やがてペガサスの方からそろりと近付き、ドルベの差し出した手に自ら頭を触れさせた。
「すごいわ……!」
 まるで物語の一場面を見ているような見事な流れだった。朝日の最初の一筋が差してから辺りが完全に朝になるまでの僅かな時間に、ドルベはすっかりペガサスを手なずけてしまったのだ。
「ナッシュ、メラグ!」
 山の上に輝く朝日のような晴れやかな笑顔で、ドルベが二人を振り返った。
「ほら、もう大丈夫! 君たちも来てごらん!」
「……ほんと……?」
 恐る恐るメラグが柵に手を掛ける。昨日のペガサスの暴れっぷりを見せ付けられていたので、すぐに近付くのも躊躇われた。
「俺が行ってみる。お前はここで待ってろ」
 乗り越えようとナッシュが柵に足をかけ、身を乗り出した時、道の向こうから男の呼ぶ声が聞こえてきた。
「殿下ー! ナッシュ王子殿下!?」
「チッ……」
 舌打ちをして、柵から飛び降りる。早起きな村長がナッシュたちの不在に気付いたのだ。村長と護衛の兵が二人、ナッシュとメラグの元に駆け寄った。
「心配いらない、ペガサスを見に来ただけだ」
「……ドルベ、お前、何故ここに……!?」
 柵の中にドルベを見付け、村長は目を剥いた。柵の中を振り返ると、白馬の傍らに佇むドルベが目を丸くしていた。
「王子殿下……って……」
「バレてしまいましたわね」
 メラグがいたずらっぽく肩をすくめる。
「別に隠していたわけじゃなかったが……驚かせてすまない。俺たちも、そう……観光客みたいなもんだ。ペガサスを見に来た、な」
「王子様が、ペガサスを……」
 それだけでドルベは何かを察したようだった。
「村長」
「は、はい……!?」
「噂どおりだったな。『近隣の村』とやらの少年は?」
 たっぷりと含みを持たせて言ってやると、村長は文字通り震え上がった。
「彼と、お、お話しになったので……?」
「ああ。山を越えて来たと言っていたな」
「……! そ、それは……なんと言いますかその……」
 勝手に出歩くなとあれほど……と小声の愚痴が耳を掠めた。
 対策と称し隣国の少年を呼び寄せてペガサスを手なずけ、その後ナッシュたちが村に到着する。ナッシュたちと少年が顔を合わせることはない……そんな思惑だったのだろう。視察の一行の到着が早まったことでまず思惑が外れ、それでもなおドルベに事情は知らせず王子と鉢合わせしないように根回ししたつもりが、好奇心旺盛なドルベとナッシュたちが早朝に揃って宿を抜け出したことで見事に台無しになったのだ。
「まあ、その辺りは不問にしてやろう……面白いものを見せてもらったからな。聞いていた通り、本当にペガサスと話をして大人しくさせた。……見事なものだ」
「そうですか!それは……良うございました……!」
 早朝の寒さにも関わらず冷や汗を出し続けていた村長だったが、少しほっとしたように額を拭った。


*************
「ナッシュ……王子殿下」
 村長の屋敷に戻って朝食を取った後に改めて顔を合わせることになり、大人のいないところで話をしたくてドルベを誘って外へ出ると、ドルベは早朝とはうって変わって遠慮がちな様子でナッシュの名を呼んだ。
「そんなに畏まらなくていい。さっきも言ったが観光客みたいなもんだからな。まあわかっていると思うが、今はペガサスのことはあまり言いふらさないで欲しい。あいつが飛べるようになったらいずれ噂は広まっていくと思うが」
「はい……それは」
 ドルベの村に依頼人が来た時には手の付けられない暴れ馬としか聞いておらず、山を越える道中にペガサスの仔馬であることを明かされたのだと言う。
「だから、僕の村の者もペガサスのことは知らないと思います」
「フン……村長め、周到だな」
 向かうともなしに仔ペガサスのいる牧場へ来てしまった。群れに混じっていた白い仔馬がこちらを見つけて小走りに駆け寄ってきて、ドルベも嬉しそうに柵に走り寄る。
「…………………………」
 なんとなくだが、予感があった。
 ナッシュが牧場の柵を乗り越えてペガサスに近付くと、少し警戒の素振りを見せるが、昨日のように逃げたりはしない。
「ドルベもこっちへ」
 同じように柵の中に入ってきたドルベに、ペガサスはそっと寄り添った。
「……どうやらこいつは、お前を主と決めてしまったみたいだな」
「えっ………!?」
 ドルベが驚きの声を上げると、ペガサスはドルベを庇うように小さな翼を広げた。心なしか睨まれているような気もする。
「咎めているわけじゃない、勘違いするなよ……!」
 思わずペガサスに向かって話しかけていた。
「まさか……。僕はそんな器じゃない。この子だってこれから村の人に馴れていけば僕のことなんか忘れて……」
「そんなこと言うけど、それは嫌だって実は思ってるんじゃないのか?」
「………っ……」
 言葉に詰まり、ドルベは目を逸らした。ペガサスが心配そうに顔を寄せる。
「この子にはあなたが……ナッシュ王子が乗るんでしょう? この子は特別だ。王子であるあなたも。この子が人間に心を開いたら僕はもう用済みだし、たぶん今日にも帰ることになります。ペガサスのことは誰にも話しません……早く忘れることにするから、あとは、よろしくお願い……します…!」
 それだけ言って、突然背を向けて逃げるように走り出そうとしたドルベを、素早いながらも優雅な身のこなしで回り込んだペガサスが遮った。
「わ……!?」
「完全に読まれてるな。動きも、心も。息ピッタリというやつじゃないか」
「そう言われても……!」
 予感はあったのだ。
 昇ったばかりの眩い朝の陽の中で近付き、寄り添い、心を重ねた彼らを見た。人嫌いのペガサスは、ずっとこの少年を待っていたのだ───そう思えるほどに、彼らは既に一対だった。
「こいつは……ペガサスはもう決めてる。お前だってそうじゃないのか?」
「でも僕は……」
 この国の人間じゃない、と苦しげに声を絞り出す。山脈を挟んだ両側、地図の上ではそれほど離れては見えない二つの村は、厳然と国境線に隔てられているのだ。そうしてペガサスはナッシュの国の財産なのだから。
「…………」
 夜明け前の薄明かりの中、初めて会ったドルベに何故か好感を抱いた。
 ペガサスと寄り添う美しい光景を見た。
 たったそれだけで、ペガサスは自分のものだと主張する気持ちが朝霧のように消えていったのだ。譲ってやるとか諦めるという感情もない。出会うべくして出会った天馬と騎手に、余人が入る隙などない───
「いいかドルベ、俺は別にペガサスに乗りたいなんて思ってない。乗れるやつが乗ればいいんだ。まあ伝統的にペガサスに乗るのは国王か、国を守る要の騎士……」
「だから、僕には」
「ドルベ、お前がペガサスに乗って守ってくれればいい。俺の国に属するのが難しいなら、山を越えて。ペガサスなら一飛びなんだろう?」
「……ナッシュ……!」
「なあお前、」ナッシュはペガサスに話しかける。
「俺にはまだ、はいどうぞとお前をドルベに譲ってやる権限がない。国同士のあれこれも面倒だ。ドルベはすぐに山を越えて帰ってしまう……後を追いたいだろうが、今は我慢するんだ。いずれ自由に飛べるようになったら、その時はお前も山を越えて行け。ドルベはきっと待っていてくれるから」
 ペガサスは少し首を傾げて言葉を聞いていたが、わかった、とでも言うように頭を下げてナッシュに顔を寄せた。
「ああ、それでいい。いい子だ」
「ナッシュ……ナッシュもペガサスと話をしてる!」ドルベが笑い出した。
「そんな気がするだけだろ……お前とは違う。それにこいつが聞く姿勢になってくれたのもそもそもお前のお陰だしな」
 いつの間にかドルベから敬語がすっかり抜けて、始めのような気さくな調子に戻っていた。

───さっき初めて会ったばかりなのに、もうずっと昔から友達だったような気がする ……

 王族ゆえに同じ年頃の「友」と呼べるような者は周囲にいなかった。いつもすぐ側にメラグがいてくれて、世界はそれで完結していたのだ。
 海と、王宮と、双子の妹姫────広いように見えてそれだけだったナッシュの世界に、初めての「友」が眩い白い影を落とした。
 山と国境に隔てられていても、きっとペガサスに乗って来てくれる。
 そう思い続けることができる、心からの友達。



*************
「よかったわ。ドルベとペガサス、お似合いだと思ってたし」
「……俺にペガサスは似合わないってことか?」
「そうじゃないったら! でも……そうね、ナッシュには空より海が似合うもの」
「…………………」
 一足先に隣国へ帰って行ったドルベを、ナッシュとメラグは見送った。ナッシュたちはせっかく来たのだからともう二日ほど滞在して、めったに来られない高原の空気を楽しむつもりだった。
「でも本当にペガサスが飛んで逃げてしまったら、村長さん今度こそ首を括りかねないわ……」
「それはちょっと気の毒だな。そうなる前に王都に連れて来られれば……。そうしたら後はいくらでも俺が責任取れるからな」
 村長にはとても聞かせられない話をしながら、ペガサスのいる牧場を通りかかった。ナッシュたちを見付け、白い仔ペガサスがサクサクと草を踏んで近付いてくる。
「私たちにも懐いてくれたみたい……嬉しいわね」
 ドルベにしていたように擦り寄ってくるわけではないが、挨拶程度ならする気になってくれたようだ。どちらかというとナッシュよりメラグの方に好意を抱いているように見える。
「ふふっ……言ったでしょ? 清らかな乙女のほうがペガサスだって嬉しいって」

 ペガサスが現れるのは三十年に一度あるかないか……縁がなかったのなら仕方がない。そういえばペガサス騒ぎですっかり忘れていたが、この村は元々名馬の産地だったではないか。
「例えば、そう……あの強気そうな黒いやつとか……」
 ペガサスと同時期に産まれたらしい若い馬たちが、興味深げに牧場からナッシュを見ている。滞在時間はまだある……将来のパートナーになりそうな馬を探してみるのも悪くない。

一緒に海を見よう────俺は出会ったそいつに、そう言ってやるのだ。









**************************
*
*
*
*

「もし私がペガサスではなかったら、私は主と出会うことも、共に戦うこともなかったでしょうか」
 いつもは静かな部屋に、今日は雨の音が忍び込む。ぱらぱらと屋根を打つ単調な響きにふと遠い昔の記憶が蘇った。
「そんなことはない」
 主、ドルベは即答する。そういう人なのだ。
「前世の君が、そう……例えば人間だったとしても、きっとどこかで出会っていた」
「そうだとしたら、私も剣を持って主の隣に立っていたかも知れませんね」
「君が剣を? うーん……」
 似合わない、とでも思っているのだろうか。それを言うなら現世の主にもあまり似合いそうにない。
「本当は君を戦に連れて行きたいわけじゃなかった……危険な目に遭わせたくはなかった。いつも言っていただろう?」
「ええ、そうでしたね。でも……」

 貴方が私を呼んでくれたから。
 どうしようもなく人間嫌いの暴れ馬だった私に、優しい声で囁いてくれたから。

────君と、友達になりたいんだ。

 どんな馬も心を開く、奇跡のホース・ウィスパラー。
 だから私は、今も貴方の隣にいるのです。






(了)

 

 

 

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2014/10/02
マッハさんと鮫王の黒馬が同郷の幼なじみみたいな伏線張れてまんぞく。あと一時期マハ璃緒推してたことも思い出した。

 

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