・現世で楽しく二人暮らし
玄関の鍵が外されてドアの開く音と同時に声がした。
「───ただいま」
「お帰りなさい!」
洗濯物を畳んでいた手を止めて、玄関に主を迎えに出た。
「雪は大丈夫でしたか?」
昼過ぎから降り出した雪が窓からも見えていた。ブーツを脱ぐ主の髪や肩に白い雪の欠片がくっついている。
「大丈夫、まだ降り出したばかりだ。でも寒いな───これから積もるのかもしれない」
「すぐに温かいお茶を淹れますね」
コートを預かってハンガーに掛け、主が手を洗いに洗面所に入るのを見届けてから台所に向かった。
「───お待たせしました」
お盆に茶器を乗せて居間に戻ると、外は余程寒かったのだろうか、主はすっぽりとコタツに埋もれていた。主は現代ハートランドの暖房器具であるコタツが大のお気に入りで、ぬくぬくと幸せそうに暖を取る様子をよく「猫みたいだ」とからかわれている。
今も曇った眼鏡を外し頬をぺたりと天板に預けて両手をコタツの中に突っ込んでいる。バリアンの仲間と一緒にコタツに座ることもあるが、ここまでリラックスする様子を見ることができるのは私だけなのだ……それがたまらなく嬉しい。
卓上にカップとティーポットを置こうとして、それに気付いた。赤いリボンとピンクの包装紙で可愛らしくラッピングされた小さな箱が一つ。
「これは?」
「ああ……メラグにもらったんだ。今日は『バレンタインデー』というイベントの日なんだそうだ」
「バレンタイン……ですか」
現代の習慣に疎い主と人間の習慣に疎い私、どちらにもあまり馴染みのないイベントだった。ほんの少し聞きかじったところによれば、世界中で様々に祝われているが、ここハートランドでは殊に若い女性が張り切って意中の男性に贈り物をするようだった。
「とは言え最近はそうとも限らない……同性の友人や世話になっている人にも感謝の気持ちを伝えるらしい。メラグも同じような包みをたくさん抱えて皆に配り歩いていたな。ナッシュや小鳥や遊馬たちにも」
「なるほど……それで」
長いこと人間としてハートランドで過ごしてきた彼女にとっては年中行事の一つなのだろう。
私がカップに紅茶を注ぐ間に、主は包みをほどく。両てのひらに収まるくらいの小さな箱の中に、四粒のチョコレートが入っていた。
「私の手作りよ、あなたにも差し上げますわ……! と言っていた」
気位の高い彼女の声音を真似て主が言うものだから、うっかりソーサーに紅茶を注いでしまいそうになった。
「す、すいません……! でも、手作りとはさすがですね」
「ああ。とても可愛らしい」
四粒のチョコレートには、それぞれ違う色の砂糖の粒───アラザンと言うのだそうだ───が乗せられていた。
「四つとも味が違うらしい……君にもどれか、」
「いえ、私は……」
実は甘いものが苦手なのだ。嫌いなわけではないし少量なら美味しいと思えるのだが、いちどきに沢山は食べられない。人の姿を取った時のこの身体はそういう味覚を持っていた。
「あの、でも……一つだけなら食べられます、と言うか、食べたいです……」
嫌いなわけではないので、やはり彼女の手作りチョコレートを食べてみたかった。
「ふふ、そう言うと思ったよ」
主は色々お見通しのようで、箱の中から薄緑色の粒の飾られた一つをつまみ出し、丁寧に畳んだ包装紙に乗せて私に差し出した。
「これはミントの味が付けてあるそうだ」
「ああ……それは!」
主は私の好みを覚えていてくれたのだ。
「私はこれから頂こうかな」
楽しそうに主はピンクの飾りのついた粒をつまみ上げる。私と違って主は大の甘党なのだった。嬉しそうにチョコレートを頬張る主を見ていると、私も幸せな気持ちになる。
「……? このお茶は……」
あっという間に一つを食べきって私の淹れた紅茶を飲んだ主が首を傾げる。香りを確かめるようにカップを鼻先に近づけた。
「気がつかれましたか? 新しいお茶を買ってみたんです。先日買い物に行った時偶然ミハエルさんにお会いして、おすすめの紅茶を教えて頂いたので……」
「なるほど。あの子の見立てなら美味しいはずだ」
「ええ! おすすめのケーキ屋も教えて頂いたので、今度買ってきましょう」
「ああ、楽しみにしているよ」
喋りながら、主は二つ目のチョコレートを囓っている。
私も分けてもらったチョコを頂くことにした。直径2センチほどのそれは一口でも食べられそうだったが、まずは半分。
「ん……」
甘さよりもミントの強い香りが先に立つ。
「美味しいです……」
爽やかな香りに蘇るのは、遠い昔の記憶。
ペガサスだった私に時々ご褒美として与えられた角砂糖……それから香りの良いハーブたち。レモンバーム、パセリ、カモミール、タイム……中でも好きなのが目の覚めるようなミントの香りだった。香りを楽しみながらミントを食べる私の鬣を撫でてくれた主の優しい手の感触も思い出す。
目を閉じてミントの香りと遙かな昔の記憶をゆっくりと味わっていると、くす、と主の笑う気配がした。目を開けると、三つ目を箱からつまみ上げながらにこにこと笑っていた。
「喜んでもらえて良かった。メラグにも、君が気に入ってくれたと伝えておこう」
「はい……是非」
たった一粒だったけれど、とても満ち足りた気持ちで紅茶を一口すする。口に残った甘さが喉の奥に流れて落ち、微かにミントの香りだけが残る。やはり一粒で十分だ。そう思いながら顔を上げると、三つ目を一粒丸ごと口に放り込んだらしい主が動きを止めて驚いたように瞬きをしていた。
「……お……」
「……?」
「美味しい……!!」
飲み込んでから、感嘆の声を上げた。どうやら最後の一粒は、一瞬我を忘れるほどの美味しさだったらしい。この驚きの表情を、チョコレートの贈り主である彼女に見せて差し上げたいくらいだ。
「何の味だったんです?」
最後の一粒は確か、オレンジ色の砂糖飾りが乗せられていた。
「ああ……オレンジだったよ。でも、これは本当に……美味しい……。君にも半分分けてあげれば良かった……」
「お気持ちだけでも、ありがとうございます。あなたの顔を見ていれば、とても美味しかったことがわかりますから」
「う、ん……いやでも、せめて香りだけでも」
コタツからもそもそと這い出して、主は私の隣に移動してきた。膝立ちの主を見上げると、両手で頬を挟まれて……
「ん………」
そっと唇が触れ合う。
下唇を啄まれて口を開けると、柔らかな舌先が口内に侵入してきた。
「…ふ……、あぁ……」
絡み合う舌から伝わるチョコのほろ苦い甘さと、鼻に抜けるオレンジの香り。
チョコそのものだったら甘すぎる、と思ってしまったかも知れない。
「……ふぅ……ん……っ……」
ほんのりと甘い。とても……美味しい。
そう思うのは、主のキスだからだろうか。
融け合う……味わう。
「は、ぁ……っ……」
顔を離すと、オレンジの香りが私にも残った。
「……ごちそうさま」
私にそれを分けてくれた主の方が、何故かそう言ってにこりと笑った。
(了)
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2014/02/14 バレンタインひゃっほう!マッハさん甘いの苦手なの自分設定です。
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