瀬人&乃亜
ふと気が付くと、薄暗い廊下に僕は立ち尽くしていた。
ここは……知っている。海馬邸で一番長い廊下。……自分の住んでる屋敷だもの、わからないはずがない。
奥に向かって一歩踏み出すと、サク、と絨毯を踏む微かな足音。
下を見ると、素足に少し大きめのスリッパ。僕はパジャマを着ている。
──── 僕は、どうしてここにいるのかな……
薄暗い廊下の左側に庭に面した窓が並び、右側にはいくつもの部屋のドア。
ひとつひとつが何の部屋なのか、よく思い出せない……
──── ああ、そうか……これは夢なんだ……
僕は本当は眠っていて、夢を見ている。だからこんなに、記憶も意識も曖昧なんだ。
サクサクと絨毯を踏む音を聞きながら廊下を進むと、ドアが一つだけ薄く開いて一筋の明かりが漏れていた。
ここは、何の部屋だったかな。カタカタと絶え間なく音が聞こえる……これはPCのキーボードを叩く音。
そっとドアに手を添えて軽く押すと、キィ……と微かな音を立てた。
「……誰だ?」
キーボードの音が止み、誰何の声が飛んだ。
ドアをさらに押し開いて中を覗くと、正面の窓際に置かれた重厚な書き物机から、そいつが僕を振り返って見ていた。
「……瀬人……」
「……乃亜………!?」
何故だかひどく驚いている。
そうだ、思い出した。ここは僕の部屋だ。窓際の机、壁際のベッド、本棚とソファとサイドテーブルの見慣れた配置。
「どうして、君がここにいるの……?」
ここは僕の部屋なのに。
ぱたんとドアを閉めて近付いていくと、瀬人はくるりと椅子を半回転させて険しい顔でこっちを見ている。
「お前こそ……」
「ねえ、ここは僕の部屋だよ? どうして瀬人がここにいるの?」
──── ……ちがう……
「……そうか、これは夢だもんね……だから、瀬人が僕の部屋にいて、こんな時間まで仕事してるんだ……」
「……夢、だと……?」
「そうだよ。僕は眠っていて、夢を見てるんだ。だから、ほら……」
すい、と手を伸ばすと、瀬人がその手を取ってくれた。
てのひらに触れる『感触』。
「乃亜、お前……」
──── 夢だよ、これは。
「……ふふ、可笑しい……。なんでこんな夢見てるんだろ……。よりによって瀬人なんかが出てくるなんてさ」
「………………乃亜」
重ねていた手を引かれて近付くと、抱き上げられて瀬人の膝に乗せられる格好になった。
まるで小さい子供みたいに。
「な、なに……!?」
抵抗しようとしたけど、すっぽり収まって抜け出せない。
それに、すごくあったかくていい匂いがする……
「……お前は眠っていて、夢を見ているんだな……?」
「ん……、そうだよ……」
低い声が耳元で囁く。
「だったら、こんな所ではなくベッドで眠った方がいい……」
「う、ん……」
ふわりと身体が浮き上がり、ぱたりと両足のスリッパが床に落ちる音がした。
ゆらゆらと心地よく揺すられながら運ばれて、そっとベッドに降ろされた。
「乃亜……もしも、これが夢なら……」
柔らかく布団が被せられる。
瀬人の落ち着いた低い声はまるで子守歌のように僕を眠りに誘う。
──── 夢の中で、また眠るの……?
髪をさらりと撫でた後、まぶたの上にそっと置かれた手はとても温かくて、 僕は …… ────
すう、と寝息が漏れたのを見計らってデスクに戻った。
しばらくキーボードを叩いてから寝台を振り返ると、そこにはもう何者もいなかった。
「……………………」
作業を中断して立ち上がり、寝台を検分する。
枕が窪んでいる。掛け布団が人の形に盛り上がっているが、中身はからっぽだ。
布団を剥いでシーツに触れると、微かに温もりが残っていた。
「……AIも、夢を見るのか…………?」
ソリッドビジョンではなかったし、ここはバーチャル空間でもない。
なのに手のひらに触れた感触、抱き上げた重さ、息遣いや体温を確かに覚えている。
そこには何もいない、気のせいだと無視することもできたのに、抱き上げてしまったのは、幼い頃の弟を思い出したからだった。
『兄サマ………』
引き取られてきたばかりの広い屋敷で半分眠りながら廊下を彷徨って瀬人の部屋に迷い込んできた幼いモクバを抱き上げてベッドに寝かしつけた。
毎晩ではなかったが、小さな身体にストレスを溜めたモクバの彷徨は生活が落ち着くまで続いたものだった。
「オカルト話など信じたくもないが……」
現実空間に彷徨い出てきた乃亜を躊躇うことなく抱き上げてしまったのは、そういうことだったのだろうか。
──── 今更「弟」が増えるとはな……
「フン………」
今度は良い夢を、と弟たちに呟いて、瀬人はデスクを後にした。
静かな夜だった。
(了)
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2016/09/20
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