「あなたの手が僕にふれて」




いつからだったろうか。ぱたぱたと廊下を近付いてくる軽い足音を聞き分けられる
ようになったのは。


西岐城・軍師の執務室。軍師補佐の僕は、自分の机で書簡に目を通している。僕の
背後の窓の枠には、普賢真人・・・普賢師弟が、いつものように腰掛けている、はず。

「こんにちは──。・・・あれ?望ちゃんまたいないんだ・・・」
「いらっしゃい、普賢師弟。師叔は今、会議中なんです。あともう少しで終わる予定の
時刻なんですが・・」
「そっか。じゃあ待ってるよ。ほら、差し入れ持ってきたんだ。あとで一緒にお茶にしようね」
そうしていつものように窓枠に腰をかけ、僕の仕事の邪魔をしないためだろう、部屋に
沈黙が降りる。


・・・いつからだったろうか。この沈黙を、気詰まりに思わなくなったのは。


普賢師弟がいくら気配を消していても、慣れない他人と二人きりなのに緊張してか、
あれほど重たく感じていた沈黙だったのに。
普賢師弟の気配が透明になるにつれ、あたりの空気も澄んでいくような気がする。
そこにいるのがあたりまえの存在に、なりつつあるんだろうか。





「楊ゼン、髪・・・邪魔そうだね。結ってあげる」
「え?」
突然そんなことを言いだした普賢師弟は、言うが早いか椅子の後ろに立ち、机の上に
まで流れていた僕の髪をすくい上げた。
少し冷たい指先が、一瞬、僕の首筋に触れる。
「!」
瞬間、背中をぞくりと駆け抜けたこの感じ・・・感情は、何て言うのだろう。
普賢師弟はゆっくりと、ていねいに手ぐしで僕の髪を梳いていく。
僕にとって他人に触れられることは、何より苦痛と嫌悪感を伴うものだったはずなのに、
普賢師弟の触れてくる手は、なぜだかとても気持ちがいい。



普賢師弟の手が、僕の髪を一房づつすくい取る・・・そのたびに、僕の身体を満たして
いくこの甘いような、切ないような気持ちは、何て言うのだろう。



「はい、できあがり!」
いつの間にか、僕はうっとりと目を閉じていたらしい。普賢師弟の声で我に返る。
少し振り返ってみると、三つ編みになった僕の髪を持ち上げて見せて、普賢師弟は
とても楽しそうに笑っていた。
ああ、そうか・・・・。
「ありがとうございます、普賢師弟。」







                      ────これをきっと、“恋”と言うのですね。






《END》 ...2001.02.05




 







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