抱卵




主を失ったエデンの園は、それでも穏やかな静寂に包まれていた。
外界と同じように楽園にも夜は訪れ、人も魔獣も眠りに誘われる。水路を渡る小道の上でリゼルが空を仰ぐと、今も消えずに残る女神の結界が外界と楽園を隔て、ガラスの温室にも似た半透明の天蓋が夜空と半月を透かしていた。
「………………」
楽園の最奥、いつも女神の座していた至聖所に主の姿はなく、今は大きな卵が一つ置かれているだけだった。その卵こそ、リゼルたちとこの世界の運命を動かすもの────魔王の卵。天使に急襲され命を落とした女神が、最後の力で残したものだ。陰の月でリゼルたちに倒された魔王が女神の力で復活し、力を貸してくれるのだという。
「……仲魔になってくれるってこと……? 本当かな……」
卵が孵るにはまだ数日はかかるらしい。リゼルはそろりと卵に近づいた。
創造主を憎み、人間に怒り、全てを滅ぼさんと戦いを挑んできたあの魔王ルシフェルが契約を結び仲魔になるというのはなかなか想像し難い。それ程に恐ろしい敵だった。
それでも戦いの前にリゼルはほんの僅か、説得できるような気もしていたのだ。レガイアとこの世界はおかしいと言うリゼルの言葉に耳を傾け、真の敵は他にいるのだと示唆してきた。ならばここで戦う理由はなく、自分たち人間の戦うべき相手もルシフェルの言う「奴」ではないのかと言葉を続けようとしたのだが、ルシフェルはそれ以上は聞く耳を持たなかった。
今ならばそれは、人間への憎しみを植え付けられて産み落とされた魔獣たちと同じだったのだと思える。エデンに住まう魔獣たちは、女神によって心を浄化され、自我を持つに至った者たちだ。あの時の魔王は、真実の一端を知りながら、まだそこまでの「目覚め」には至っていなかったということなのだろうか。
ならば、この卵から孵った時、魔王ルシフェルは………


サク、と草を踏み、リゼルは卵の側に立った。大きな卵は、リゼルの胸の高さほどもある。そっと手を伸ばし、卵に触れた。
薄灰色の殻とざらりとした手触りは何かの鉱物を思わせたが、指先から伝わる気配は紛れもなくそれが「生きている」ことを示していた。背筋がぞくりとするような、強い魔力の気配……それは卵の中で眠るルシフェルの感情も伝えてくるようだった。
魔王の肉体は眠りに就いていても、精神は先に目覚め、配下の魔獣たちに命令を下すのだという。ならば今も、こうして傍らに立っているリゼルの姿をどういう手段でか捉えているのだろうか────。
そう思うと、リゼルの動悸は知らず早くなる。自分の呼吸の音がやけに耳に付く。
「────っ……」
咄嗟に卵から手を離すと、まるで笑っているかのように密やかに辺りの空気が震えた……ような気がした。
見られている、聞かれている? それとも………

恐る恐る、リゼルはもう一度卵に手を伸ばした。手のひらをぺたりと付け、軽く撫でる。しかし先ほど伝わってきたような威圧感はない……やはり気のせいだったのだろうか。その表面はやはり石のようにひやりとして、魔獣たちの王の揺籃に相応しい硬さと冷たさで、リゼルと中で眠る魔王とを隔てていた。
「魔王、ルシフェル……」
眠っているのか目覚めているのか、聞いているのかいないのか。何の気配もしなくなった卵に、リゼルはさらに近付いて耳を当て、音を探った。
「……………………………」
寄りかかるように上半身を預けても、卵はぐらつきもしなければ何の反応も返さない。ただ聞こえるのはドクンドクンと響く自分の心臓の音。

────……聞こえている………?

目を閉じて、さわさわと殻を撫で回す。微かに爪を立てると、かり、と乾いた音がした。

────……聞こえている………?

目を閉じたリゼルの脳裏に浮かぶのは、パンデモニウムの暗い天井を覆い尽くした淡紫の巨大な三対の翼。歴代のガイアマスターたちも目にしてきたそれは、彼らにとって最も忌むべき人間の天敵の象徴としていとも恐ろしげに語られてきた。
だが、リゼルはその禍々しい三対の翼を────あろうことか戦闘の真っ最中に、「美しい」などと思ってしまったのだ。
恐ろしいのは魔王ではない、そんな感情を抱いてしまう自分の思考の方だ。一体自分はどこへ向かおうとしているのか……。
「……なんてね……今更だよね……」
そう独りごちて、リゼルはクスリと笑った。
元から魔獣の研究などして異端と後ろ指を指され、親に勘当されたあげく神殿やクルセイダーたちに追われる身になった自分が、今更魔王の翼に魅せられたところで、何の変わりもあるわけがない。

「だから、大丈夫……。だから、早く……」

もう一度見せて欲しい。

「早く、生まれてきて……」



魔王と世界を隔てる卵の殻が、リゼルの体温でほんのりと温かくなっていた。






《END》 ...2009/09/06




 


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