「……今日もまた言った。今日も!」
「…何をだい?」
ウルズの泉のほとり、杖に宿した小さな明かりで手元の本を照らしながら魔導士は訊ねた。
「ルシフェルが」
不満そうに、微妙に問いとは違う答えをリゼルは返した。
自称・ただの気楽な観光客エイボンがねぐらとしているこのオアシスに、リゼルはよく一人で現れた。街に滞在中の空き時間や夜のひととき、ニンフの羽を拝借してエイボンの元を訪れては魔法理論や魔獣の話をする。レガイアでは滅多にできない知的な会話がエイボンにも楽しく、多少研究のヒントになる程度ならばとリゼルの相手をしていた。それは、リゼル達一行の状況ががらりと一変し、エデンや方舟を常宿とするようになった今でも続いていたのだが。
「ルシフェルが、今日も言ったんだ。…『私が消えたら』って。いつもいつも、自分が消えること前提で話をするんだ……」
唇を尖らせながら話す言葉の奥に、どうしようもない焦れったさが滲む。少年がこんなにも魔王に執心するようになるとは、エイボンにも予想外だった。ずっと魔獣の研究を続けてきたリゼルが、魔王ルシフェルに興味を抱くのは当然の成り行きだったとしても、今の感情はそれだけではないのだろう。
「……絆されたのかい? 相手は魔王様だっていうのに」
「そ、そんなんじゃないよ! ただの研究対象だって言ってるじゃない!!」
「フフ……」
わかりやすいなあ、とエイボンが笑うと、違うって言ってるのに! とリゼルはぷいと横を向いた。
「確かに、研究対象としてもかなり興味深いね……。飛び抜けた能力を与えられながら思考に枷を嵌められ、人間に勝利することがないように定められていた……それが女神によって自我を起こされ、肉体の再生も彼女によって行われた今は、彼の者の被造物としての制限からはほぼ解放されたと言えるのか……」
『書』とリゼルの話から得た情報を考察しながら、最後の方は独り言のようになってしまった。
気が付くと、リゼルがじっとこちらを見詰めていた。
「……そうだよ、ルシフェルは……僕だって、まだまだ、知りたいことがたくさんあるのに……」
瞬きを忘れたかのようなサファイア色の瞳。
どこか遠くを見遙かすその色は、青き星レガイアを思い起こさせた。
その外側にいる者にしかわからない、恋心にも似た強烈な郷愁。
陰の月からしかレガイアを眺めたことのなかったルシフェルにも、その色が見えたことだろう。
ならば、もしかすると……
「彼は…ルシフェルは、願いを叶えるためにその存在の全てを賭けて闘っている……。それを引き留めようとするならばリゼル、君も……全身全霊を賭けるくらいの覚悟は要るかもしれないね」
「……全身全霊。」
エイボンが言ったその言葉を、リゼルは繰り返した。
「そう、文字通りにね」
「…………………」
全身全霊。
少年の持っているもの全て。
リゼルもそれに気付いたのだろうか。
一呼吸おいて笑った。
とても綺麗に。
*****
一人になったウルズの泉のほとり、杖に宿した小さな明かりの元エイボンは『書』を開いた。
「これくらいなら、介入にはならないだろう……?」
ほんの少し、言葉を添えただけ。それがなくてもあの少年ならばいずれ自ら行動に走っていただろう。
少年の持っているもの全て……
例えば、エイボンも惹き付けられた知性と好奇心。
身体を使い、性的に誘惑することもできるだろう。
それから、強大な魔力の源となっている良質の生体マグネタイト。
リゼルがその全身全霊を賭けて、魔王の望みを覆しにかかったとしたら。
……さて、『書』の続きはどうなることか。
実に面白い。
エイボンはぱたんと『書』を閉じた。
《END》 ...2009/04/17
リゼルがどんどん腹黒くなります。
ルシフェル様逃げて!超逃げてー!!
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