背中の向こうで扉が開いた。差し入る陽が床を一瞬のうちに黄金色へ染める。と、膝の上で丸を描いていた猫がしゅるりと滑り落ちた。
 なー、なー。
 甘ったるい鳴き声を上げながらとてとてと近寄るそれを、青いローブを着た人間の男は、こともなく、ひょっと首根を掴み上げた。猫の爪がきいと布を掻く。そのまま頬ずり一つして、そっと床に下ろす。すると男は、くるりと踵を巡らせて。
「ただいまー」
 声と一緒に温みが背を襲う。
 汗のにおいのする腕と、土に塗れた掌。それらが身体をぐるり囲い込む。
 一周するにはほんの僅かだけ届かない男の指が、まるで猫の尾がじゃれるように、ちょい、ちょいと触れては離れる。と、だらりと長い男の髪が、重力に逆らわず垂れ掛かった。鼻先を男の篭った体臭がくすぐる。反射的に魔王は身を縮こめた。この家に住み着く何匹とも知れぬ猫で随分慣らされたとはいえ、人間の、血しぶきではない肌の温かみと臭いは、どうしても落ち着かない。
「先食べててくれて良かったのに」
 言って男が顎で示す。魔王が掛けている寝椅子の横。サイドテーブルにぽつんと置かれたスープ皿に、魔王は手をつけていなかった。
 人間の食物を受け付けないわけではない。が、食物に対して人間のように欲を覚えることもない。
 偽神が座を去るまでの幾星霜、魔王にはガイアがあればそれで事足りた。低級魔獣の中には人肉で飢えを満たしていたものもあったと聞くが、魔王のように高位の存在は――とはいえ、「父」たる偽神からすれば、魔王など箱庭の人形程度でしかなかったわけだが――ガイアのみで肉体を構成し、維持することが出来た。出来ていたのだ。これまでは。
 偽神とともにガイアが消え去ってしまうまでは。
「まあ、一緒に食べるほうが台所もいっぺんに片付くし、イイか」
 そんなことを呟き、ほこりっぽい頭巾を脱ぐ。サイドテーブルに置いてかぶりを一つ二つ振り、居住まいを直す。そうして男は再びこちらへと向き直った。
「魔王さん」
 顔を両掌に包み込まれる。
 とすぐさま、ぐっと引き寄せられた。偽神もろともにガイアを失った身体は、たやすく人間の腕の中へと落ちる。
「――大丈夫?」
 深く覗き込まれる。
 居心地が悪い。
 目を突き合わせ、物も言わず。男はただじっと見る。青く丸い眼球でもって射竦める。堪らない。魔王は視線を顔ごと横へ逃がした。こんな人間ごときに。癪だ。けれど仕方がない。途端、横で口許を崩す男が苦々しい。
「今日は身体、しんどいみたいだね。時期外れに暑いからかな? でも良かった」
 初めて目にした時、青白さと堅さばかりが凝りついていた顔は、随分面変わりした。
 この青い男ともう一人、人間の女。その二人に抱えられ、男の古巣だとかいうこの村へ担ぎ込まれて来たのが、今から数ヶ月前だった。指一本動かせない状態で薬草と呪文付けの数週間を過ごし、どうにか起き上がれるまでになったのは、ほんのついこの間だ。
 女いわく、
「海岸で見つけてから、リゼルがあんたをおぶって歩いたの。夜道もずっと。それで、途中、休憩をとるじゃない。その時にリゼル、必ずこう、鼻の穴に手をかざすのよ。その時の顔が、……見てられなくて」
 故郷の町へ戻る女を見送った後、男はジケイダンとやらに入った。
「周りがどうなろうが、どうでも良かったんだ。…でも、『あいつ』がどこかで見ているんだろうなあって思ったら、そうは言ってられないよね」
 ガイアが使えないなら他の手段を探すだけだよ。そう言って笑う顔は晴れ晴れとしていた。
 饐えた古書の匂いしかしなかった身体から、今立ち上るのは、陽と土の蒸れた空気。それはガイアではない。ガイアよりも、もっとたおやかで、熱のある――おそらくそれは、偽神によって「ガイア」だとか「勇者」だとか「魔王」だとか、そんなフィクションを作り出されるよりも遥か昔から、この星自身が備えていた「力」なのだろう。
 しなやかで且つ静謐でありながら、自然の摂理を体現する「力」。
 『百年に一度の聖戦』という、大いなる神話を放棄した人間たちは、これからこの星の「力」とともに生きていくのだろう。そこにフィクションはいらない。人間達自身の手による歴史が始まった今、予定調和の神話は幕を下ろすのだ。
 ならばこの身体も。
「ちょっと待ってて。火、通してくるから」
 遠からぬ幕引きを待つだけだ。






《END》 ..2009/11/11 ... 11/16UP




 


トリドラゴンことからさんが書いてくれましたー!
ええと、タイトルは「魔王様ヒモ日記」だそうです(笑)。むしろ拾得物でも。
からさんちのリゼルはパーティ一のインテリマッチョだそーです。どんなステ振りだったのか気になるじゃない・・・。消えたがりの魔王さんはまさにヒモ!かわゆす。

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