霧の街、倫敦。
夜ともなれば、白く漂う霧はいっそう濃厚になる。大通りをゆったりとたゆたい、小路から小路へ、裏通りを抜けて、街のすべてを密やかに支配する。闇に住まう者たちにとっては、檻にして揺り篭。闇と霧のなかであらゆる悪事が行われ、やがて朝日を浴びるころには消えていく。
頬に冷涼な風を受けて、少年探偵はついと帽子を上向けた。どんなに危険があっても、彼は夜の街が好きだった。街中が心地よい静寂に包まれていて、どこか湿気を含んだ夜気は気持ちがいいし、霧にかすむランプ灯は美しい。もっとも、我物顔で歩きまわる小悪党を軽くいなし、道端に寝こんでいる宿なしや酔っ払いとをさらりとよけることができればの話であるが。そのあたりは、どうにかうまくやり過ごしてこそ、生粋の倫敦っ子である。
が、少年の前をずんずんと大股で歩く少女には、霧に身をひそめ、危険を回避しようというつもりはさらさらないらしい。
「ちょっとー、あの依頼デマじゃないの?」
高い声があたりに響きわたる。本人はこれでも抑えているつもりらしいが。このような時間に女子供がふらふらと出歩いていることを知らせて回るようなもので、あくどい人間の格好の餌食だ。事実、先ほどからガラの悪い男たちに何度も絡まれ、そのたびに追い払ってきたのだ。
「ほんとに見かけたのかしら、火の玉なんて」
アリエスは唇を尖らせた。
昼間、探偵協会で受けた依頼を思いかえす。
依頼人は中流階級の男。劇場近くの裏通りで、火の玉を見た。たしかに見たのだが、だれも信じてはくれない。しまいには、飲み仲間からほらふき呼ばわりされる有様。どうしても、その存在を確かめて、俺を馬鹿にしたやつらの鼻をあかしてほしい、と。
「ねえ、どう思う、ヴァージル?」
アリエスはくるりと振り返って、後ろを歩く男に意見を求めた。
男は、わずかに表情を翳らせたようだった。
「……さあ、どうだろう?」
「さあって……あんたが頼りなのよ! 何か感じたりしないの? ヘンな気配とかヘンな気配とか」
「今のところは……何も」
「ヘンな事件はあんたのセンバイトッキョなのよ!」
勢いよくまくしたてられても、ヴァージルは穏やかな物腰を崩さない。夜の霧みたいな人だ、と少年は思った。静かで、つかみどころがなくて。
「ところで、あんたたち、お腹すいてない?」
にわかに語調を和らげて、アリエスが尋ねた。
二人の意見を求めているようで、実際はそうではない。アリエス自身の腹が減っているのだ。
アリエスは、手に持ったバスケットを掲げた。
「ちょっと休憩して、何かつまみましょうよ。さっきから、ガラの悪いやつに絡まれてばっかりで、もうクタクタ」
その最たる原因は、霧にもかすむことのないアリエスの堂々たる態度なのだが、本人はまったく気づいていない。
「ほら、あそこにちょうどいい場所があるわよ」
アリエスは、古いアパートの前の階段を指し示した。
三人は階段に腰かけ、息をついた。
アリエスの提案は、あながち間違いでもなかったらしい。霧深き倫敦の長い夜、あてもなく探し物をするのは、案外骨が折れる。
「熱いお茶がほしいところだけど」
言いながら、アリエスはバスケットから包みを取りだした。
「ほら、あんたたちも食べなさいよ。厨房からくすねてきたのよ。うちの料理人、結構ウデがいいんだから」
アリエスは自慢げに胸を張った。目の前に突きだされたのは、美味しそうなにおいを放つキドニーパイ。思わず、少年は唾を飲みこんだ。
「どうしたの、ヴァージル? 妙な顔して」
訝しげなアリエスの声を聞いて、少年の意識は目の前のキドニーパイから隣に座るヴァージルに移った。
「……僕は、遠慮しておくよ。申し訳ないけれど……」
ヴァージルはささやくように告げた。アリエスは腰に手をあて、ヴァージルの鼻先にびしっと指を向けた。
「あんたみたいなヨロヨロした人間こそね、ちゃんと精がつくものを食べなきゃダメなのよ! まったく、ふだん何食べてんのよ?」
ヴァージルの食事。少年は思い描こうとしてみたが、薄く淹れたハーブティーを口に含む姿以外には、どうにも現実味がない。
たっぷりとミルクを落とした濃くて熱い紅茶。じっくりとよく煮たソースが食欲をそそるキドニーパイ。ナッツやフルーツのぎっしりつまったクリスマスのプディング。暖炉であぶった熱々のスコーン。
倫敦の食卓をにぎわす料理の数々が頭をめぐる。だがそのどれもが、彼には似つかわしくない気がした。
と思っている横で、アリエスが強引にヴァージルの口にパイの切れ端を押しこめていた。
「ほら、人間食べないと死んじゃうんだから!」
人間、という言葉にいささか違和感を覚えたが、それよりもまず、悲しげなヴァージルの顔が目に飛びこんできた。このまま泣いてしまうのではと思って、少年は仰天した。よほど嫌だったらしい。こんな表情をする彼をはじめて見た。
無理強いはやめなよ、アリエスにそう言いかけたところで、頭の上にかすかな気配を感じた。
「あれ、もしかして……」
アリエスも気づいたようで、ヴァージルの外套を掴みかけた手をとめて、はたと顔をあげる。
「火の玉?!」
小さな光が、わずかに晴れてきた夜霧のなかを漂っている。あわてて荷物をまとめ、三人はその行方を追った。
光の玉は、劇場の窓に吸いこまれていった。
少年とアリエルは、互いに顔を見合わせた。
「行くわよね?」
少年はうなずいた。
ソワレの客はとっくにひいていて、扉は固く閉ざされている。もちろん合法的な方法ではなく、ということだ。
裏口に回ったところ、運よく排気口を見つけたので、そのあたりに転がっていた木箱をよじ登り、少年が先に中に入った。内側から木戸の閂を外して、アリエスとヴァージルを導きいれる。慣れたものだ。探偵たるもの、依頼を成功させるためにはいかなる手段も厭わない、わけではないが、声を大にして言えないような様々な手口には通じている。
押し殺した三つの足音が、ひたひたと闇に響く。興業があるときのにぎわいは遠く消え、真夜中の劇場はしんと静まりかえっていた。どこか埃っぽい、ひやりとした冷たい空気には、霊園を思わせる清閑さがあった。
「……きっと、あの部屋よ。あそこの窓に火の玉が入っていったわ」
きしみをあげる階段を注意しながらのぼると、薄暗くひっそりした廊下にひとつだけ、淡い光の漏れている部屋があった。
三人は息をひそめて気配を探った。
「どうして、戻ってきてしまうの……」
扉はわずかに開かれており、なかから女の声が聞こえてきた。そっと覗くと、仄明るい蒸気ランプの元、若い娘が思わしげに書記机に肘をついて、大きなため息を吐いている。
「ほら、お行きなさい。あなたはもう自由なのだから」
「あの……」
おずおずと、アリエスが扉を軽く叩く。
「だれ?!」
突然声をかけられて、娘は跳ねあがらんばかりに驚いていた。一瞬にして、目に警戒が走る。そこは部屋というよりは、物置に近かった。
「すみません、驚かせてしまって」
スカートのすそを持ちあげ、アリエスはしおらしくお辞儀した。こうしてみれば、小さいが立派なレディに見えるのが不思議だ。
女性に話しかけるときには、アリエスを表に立たせるのが得策だった。少年やヴァージルでは、余計に警戒させてしまう。このような時間の、突然の訪問であれば、なおさら。
アリエスは口元を手で押さえ、しとやかに尋ねた。
「あの、きれいな光がこちらの窓に入っていくのが見えたものですから……」
娘ははっとして、声低くした。
「あんたたち、見ていたの?」
「はい。こんな夜分に出かけるのははしたない真似だとわかってはいるのですが、このあたりで不思議な光を見たという噂があって、それで……」
「いやだわ、噂になってるってわけ?」
娘は顔色を失った。
腰まで垂れた豊かな金の髪、夜着のうえからもわかる豊満な肉体、魅力的な眼差し。
「失礼ですけど、あなたは、女優さん?」
「ええ。まだ駆け出しだけどね」
娘は疲れきったようにため息を吐くと、壊れかけた椅子に腰を下ろして、苦笑した。
「こんなものを追ってくるなんて、あんたたちもよっぽど物好きの暇人ね。……光というのは、これのことよ」
白い指先が、腰のあたりに漂っていた何かを、やさしく包みあげた。
少年とアリエスは、軽く開かれた娘の掌を覗きこみ、驚きの声をあげた。
「……虫?!」
「そう。東洋の珍しい虫ですって。ここは明るいから見えにくいかもしれないけど……ほら、おしりのあたりが光っているでしょう?」
「すごい、きれい……」
アリエスはうっとりとその光を眺めた。
こんな珍しいものをどこで手に入れたのか、少年が問いかけると、娘は憂いを帯びた笑みを唇に浮かべた。
「言ったでしょ。あたしね、まだ駆け出しなの。ご覧のとおり、お金がなくて劇場の物置に住まわせてもらってるわ。ひとつの舞台で、台詞があればいいほう。端役の端役ばっかりで、主役なんて雲の上の話。それでも、贔屓にしてくれる人はいてね」
そう口にする娘の頬は、どこかほんのりと赤みがさしていた。
「……よく来てくれる、船乗りがいたの。酒好きのくせに、パブに行くのを我慢してまで、劇場に足を運んでくれてね。本当、馬鹿な男」
蓮っ葉な口調のあいだに、やさしい響きが滲んでいる。
「でも、この間の航海にでたきり、戻ってこないの。港で聞いてみたけど、あいつの乗った船、南のほうに向かってから行方しれずだって」
細めた目の端に光るものがあった。
「最後に来たとき、この虫を置いていったわ。東方からの土産だって。でも、元々の寿命が短いのか、倫敦の水が合わないのかわからないけど、ほとんど死んでしまった。残ったのは、この一匹だけ」
光を放つ虫は、戯れるように娘の指先を行きつ戻りつしている。
「長くはない命なら、籠に押しこめておくよりも自由にしてやったほうがいいと思ってね。このあたりでは見たこともないような虫だから、昼間だと誰かに見つかってしまうかもしれない。だから夜を待って、何度も窓から放したんだけど、こうして戻ってきてしまうの」
娘は、小さな光に唇をよせた。
「ね、あたしの言葉を聞いて。あんたは自由なのよ。どこに行ってもいいのよ。……この子が何を思っているかわかればね。そんなこと、無理だろうけど」
「……聞こえる」
ふいに、それまで黙っていたヴァージルが口を開いた。
「彼の声が、聞こえる……」
「え?」
娘は眉をひそめた。
「まさか、冗談でしょ?」
「かすかだけど……強い意志を感じる……」
ほっそりしたヴァージルの手が、娘の手首をそっとつかんだ。
「……ほら、こうすれば……君の耳にも届くだろう?」
少年とアリエスも、固唾を飲んで耳をすませた。
ヴァージルの言うとおり、羽音に似た響きが聞こえる気がする。けれど、どんなに集中してみても、二人の耳にはそれは言葉には聞こえなかった。だが、娘の肩は細かく震えていた。
「あんたなの?」
娘の耳には、だれの声が聞こえているのだろうか。見開かれた瞳が、またたく間に潤んでいく。
「どこにいるの? 生きているの?」
娘は、ほとんど叫ぶように言った。喉の奥に押しこめていた言葉がほとばしる。
「あたし、まだあんたに伝えていないことがあるの」
溢れ続ける涙が幾筋も、娘の頬を濡らしていく。
「会いたい、会いたいの。帰ってきて、どうか……お願いよ……」
「彼は生きている」
優しく告げるヴァージルの声は、草葉の揺れるように静かに響いた。
「死者たちの声は小さくて、風に漂うささやきに過ぎない。耳をかすめていくだけで、心を動かすほどの力はないんだ。生者の声は、もっと大きく、強く……彼の声もまた」
ヴァージルの指先に導かれるようにして、光の虫は円を描いて飛びたった。
「さあ、お行き。君は、それを伝えたかったんだね……」
小さな光は室内をひとめぐりすると、窓の外へと溶けいるように消えていった。娘は床に座りこみ、子供のように泣きじゃくった。アリエスがその背中をそっとさすりあげる。
少年は窓から身を乗り出し、光が去った先を眺めた。空が白みはじめている。横に立つヴァージルもまた、目を細めて空を見つめている。静かな微笑が朝露のように儚く透きとおって見えたが、慌てて目をこすると、その姿は実体を取りもどしていた。
間もなく、倫敦の夜が明ける。
結局、謎の火の玉の正体は蒸気灯の誤作動が云々という報告を提出して、依頼は解決した。もっとも、依頼人は面白みのない解答に、納得できかねる様子ではあったが。
客席から送られる嵐のような喝采と、ひときわ熱のこもった視線を受けて、ひとりの女優の歌声が倫敦中に響きわたることになるのは、ずっとずっと後の物語。
2014/04/17 ... UP
幻水友のマディ子さんが倫敦をクリアして書いてくださいました。ゲームにもう一つ、こんなエピソードがありそうな倫敦らしい素敵なSSでした…!個人的にアリエスがすんごい可愛くて、よく喋るし動くし話引っ張ってくれるし、ゲームの彼女もとてもいい子だったし、本当に理想的ヒロインだなあと再確認しました。
素晴らしいSSをどうもありがとうございました!
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