「箱の中」




 上昇を始めて数秒ののち、三人を乗せた木の箱は突然、がくんと大きく揺れた。
「わ、わっ!」
「ぅがっ!?」
 茶色い猫の耳と赤紫の被り物が、振動につられてよろめく。ふかふかの毛に覆われた靴と潔いまでに剥き出しの素足が、しとど縺れる。細っこい肩といかつい肩が、ぐうらり傾ぐ。そんな二人の腕をさっと取り、少年は両足を踏みしばった。揺さぶりに必死に抗い、二つの「毛玉」を自分の方へと強く引く。二つの身体からしたたか与えられる衝撃――これは主に被り物を着けた男からのものだったが――も何のその、些かも怯むことなく少年は二人を胸に抱き寄せた。
「大丈夫? 怪我はないかい、ノア、ゴー」
 おっとっと、などと悠長な呟きを零しつつ、ノアと呼ばれた少女は猫の耳を模したカチューシャをゆらゆら翻して「あたぼうよぅ」と破顔し、赤紫のある種異様な空気を放つ被り物に身を包んだ男も「うがー」と機嫌良いいらえを返した。そんな様子に安堵を覚え、少年はふうっと息をついた。しかしその安堵も束の間。
(動いていない……?)
 エレベータに乗っていれば常に感ぜられるはずの上下に浮遊する感覚が少しもない。かといって、さっき船底から乗り込んだばかりなのだ、まさかもう第二甲板に着いたという訳でもあるまい。それに、こうしていくら開閉釦を押せど叩けど、ドアそれ自体を押しても引いても、木の合わせ扉はぴくりともせぬ。
「開かないのぅ?」
 少女の素朴な問いかけには答えず、少年――この巨大船の主にして、群島諸国連合軍軍主――は懐を探った。瞬きの手鏡があれば、すぐさま出られる。しかし、寄りにもよって今日に限ってそれを自室に置いてきてしまったということに気が付くのに、さして時間はかからなかった。
(参ったな……となれば、助けを待つしかないか)
 纏いつく二人に気取らぬよう小さく溜息をついて、少年は「とりあえず、疲れるし座ろうか」と、強いて明るい声音で促した。
 備え付けられた紋章灯の明かりが落ちたエレベータ内は、昼間であるというにも関わらず夜の闇に落ちたかのごとくに暗い。おおかた先の揺れで配管のどこかに亀裂が入ったのであろう。
「暗いねえ……」
「うが……」
 卑近にあるはずの少女と男の顔それさえも、闇の帳に遮られ判然としない。ただ、少年の腕に取り縋る四本のそれぞれ厚みと温みの異なる腕、その熱と質量だけが互いの存在を互いに知らせていた。
「大丈夫。あれだけの大きな揺れだったんだ、マニュさんだって気付いてるはず。それにこの時分だからね、助けだってすぐ来るよ」
 少年は努めて朗らかに言った。実際、その通りであるはずなのだ。あまり重宝がられていないとはいえ、このエレベータはインドア派ならぬ文官ないしは年長者たちにとって簡便な足となっている。日に一度たりとも使われぬことはまずない。だから、誰かが気付いて製作者のマニュなり技術者のだれぞに知らせてくれれば、それで事足りる。
「心配しなくて大丈夫だから」
 言って少年は、己の両肩にもたれる二つの温みの頭頂部に腕をぐんと伸ばし、よしよし、と撫ぜた。

 ***

「来ない、ねえ」
 いつしか眠りこんでしまったらしい男の立てる寝息を枕に、少女が幾分疲れた声でぽつんと零す。少年の抱いていた予期に反し、助けはいまだ訪れてはいなかった。
「もうすぐ来るよ」
 口ではそう嘯きながら、少年は内心焦りを覚えていた。
 所詮「お飾り」とはいえ、歴とした軍主である自分が姿を見せぬままかれこれ五、六時間が過ぎようというのに、これは一体どうしたことか。第一、復旧作業に入る様子はおろか人の気配すらせぬ。そこまで考えをめぐらせて少年ははたと気付いた。そういえば。
(久しぶりの寄港だから、みんな出払っちゃってるんだった……)
 下手をすると明日夕方の出航時まで、ここに缶詰かもしれない。嫌な想像が脳裏を走る。とまれ、このエレベータは木で出来ているから、当然隙間はあるわけだ。とりあえず窒息はしないで済むだろう――しかし。
(……無力だ)
 少年は遣る瀬無く天井を仰いだ。そうしてちらと己の左手を見遣る。
(流石の罰の紋章といったって、これじゃあどうしようもない)
 その気になれば一個艦隊だって焼き尽くせるくせして。
(この役立たず)
 声に出さず、詰ってみる。しかしよくよく考えてみれば、いままでの人生――と云ってもたいした年月ではないが、こういうことの繰り返しだったような気がする。
 機会はいくらもあった。
 それを生かすだけの力もあった。
 けれど、何故だかいつも、少年の大切なものは掌を絹の滑らかさでもってしゅるりと零れ、抜け落ちて。そう、結局のところいつだってこの手の中には何も、何一つたりとも残りはしない――
「……、あのさぁ」
 小さな声がして、少年は我に返った。
「どう、したの」
 おなか減っちゃったかいと、そう問うてみたが、少女はふるふると首を横に振る。じゃあ、と続けようとした少年の声は、少女の零す訥々とした響きにやんわり遮られた。
「えっと、んと、その、笑わないでほしーんだけどさ、ノアねえ……こーゆーせまーいとこ、あんまし……好きくないんだぁ。ほらさ、オベルで初めて会ったとき、ノアせまーいとこいたっしょ? ゆくとこ他になくて、あそこいたんだけど、でもほんとはすごい怖かったんだあ……でもね、」
 少年を頼る少女の腕に、仄かな力がきゅうと篭められた。
「いまはね、大丈夫なんだよ。だってノア、もう一人ぼっちじゃないもん」
 ね、と同意を強請るようにして、少女は顔を上向けた。頭に着けた猫の耳と、首元に巻かれたリボンがふんわり揺れる。少年を見仰ぐ少女の顔には笑みが浮かんでいた。けれど、少年の袖をひしと掴む細やかな指は微かに――震えていて。
(……ああ、そう、か)
 瞬間、少年の頭の中で何かが融けた。
(僕しかいないんだ)
 この子を守ってやれるのは。
 この子を安心させられるのは。
(僕しか、いない)
 柔らかに融けた優しい何かが、隙間だらけの胸を、うつろな心を――満たしてゆく。
「ノア」
 少年は静かに居ずまいを直した。そうして、肩口に掛かる二つの重みにそっと手を触れ、やや横に退かせる素振りを取る。
「うがぁ?」
 眠りから覚まされた男が不思議そうに問う。
「どしたの、アールさん」
「ちょっとだけ、待ってて」
 訝しげに佇む二人に優しく微笑むと、少年は眼前に立ちはだかる扉に鋭く相対した。
「頭を低くして、伏せるんだ」
 そう背後の二人に言って、少年は左手に宿る宿業の紋章の詠唱を静かに始めた。

 威容と堅牢さを誇る巨大船ゼーランディア号が、その後長期に渡る修繕作業を余儀なくされたのは、推して知るべしである。






《END》 ....2007.04.02 UP




 


「からっぽ雲」のからさんより、物々交換でいただきましたv 4主ノアは
彼女の聖地のような気がいたします。
そしてなによりゴーの可愛らしさに刮目してください(笑)。





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