水面を穏やかな風が吹き渡る。
微かに波を立て光を返しながらそれは静かにただそこにある。
世界を満たす水の気配は、故郷のそれに似てはいるけれど・・・・。




「遠くにありて」




セラス湖の古城の桟橋に、ひとり佇む人影があった。
普段は小舟が停泊し、巨亀や水竜たち人ならぬものが寄る桟橋だったが、その時分ちょうど小舟は王子の所用でどこぞの街へ出掛けており、人外のものたちも湖底へ沈んでいるのか姿が見えなかった。
すらりと長身の人影は、しばらく耳を澄ませるように湖面を見渡していたが、やがてす、と膝を突いて桟橋にしゃがみ込んだ。
何かを探るように水面を見詰めるその人影に、桟橋の板を軋ませて近付く者があった。
「・・・よう、ネリス」
「ヤール殿」
しゃがみ込んだ姿勢はそのままに振り向いたネリスは、いつの間にかやってきた上官の名を呼んだ。
「今日は誰もいないんだな」
「ええ。珍しいことです」
ネリスが目を戻した湖はわずかな風にさざ波を立て陽の光を返す。その色と光は、彼女の故郷の海を思わせた。
「・・・・湖は、無風の時は鏡のように空を映すんです。この湖は広いから、空と城が全部映って、そこにもう一つそっくり同じ世界があるように見えて・・・・」
ヤールに話しかけているのかそうでないのか、微妙な語り口調でネリスは呟く。
「こんな、大きな湖を見たのは初めてだったので・・・」

群島では精々、庭園に設えられた人工の池や、密林の木々の間にわずかに空を映す沼地くらいのものである。この広大な「動かない水」に如何ほど感銘を受けたのだろうか、ネリスはしばしば城壁やこの桟橋に佇んで湖を眺めているのだ。

「今日みたいに波が立っていると、少しだけ、海みたいに見えなくもないですよね」
ほら、こうして・・・・とネリスは目を眇めて湖面を見遣る。そうして湖の対岸を視界に入れなければ、さざ波の返す光が晴れた日の海のように見えてくる。
「けど、海よりずっと静かだな」
「ええ・・・。それに、・・・・・」
ネリスは身を屈めて手を伸ばし、ひと掬い湖の水をすくい取る。持ち上げればそれはあらかたこぼれ落ちてしまったが、それでも濡れた指先をぺろりと舐めた。
「やっぱり塩味はしませんね」
「ま、そうだろうな」

彼女が想うのはきっと、霞んで消える空と海の境界線、腹の底にまで響くような波音、沖から来る風に乗る潮の匂い。

「・・・・帰りたくなったか・・・?」
「いえ・・・・・、・・はい・・・・・・・・・・・」
曖昧な返事をし、ネリスは立ち上がった。ふわりと風に揺れた髪から微かに甘い香りが届く。
「ここへ来てから、何もかもが初めてのことばかりで・・・・」
ファレナの風土やこの湖のことばかりではない。身に迫る戦いの中に身を置くことも初めてなのだ。先の見えない戦況は、外つ国の人間であるヤールたちにも否応なく緊張を強いていた。
だが例えば、もし近くに海があったなら。
水平線を臨み、潮騒を聴くことのできる街だったならば、彼らにとってそれは少しでも和らげられていたかも知れない。
「・・・でも、大丈夫です。どんなに離れていても、忘れたりしなければ」
ネリスが胸に掌をあてる。まるで彼女の海がそこに大切に仕舞われているかのように。
その音は、色はとヤールは思った。
「忘れたりしなければ、きっといつでも帰ることができます。・・・私たちの、海に」
「・・・そ・・・・」
そうだな、と相槌を打とうとしていたヤールは言葉を詰まらせた。ネリスの呟きの終わりの部分が、無意識に予想していたものと違っていたのだ。

────わたし、たち、の・・・・

「はは・・・・!そうだな、きっとそうだ」
ネリスがそこに抱いているのは、彼女だけの海ではなかったらしい。それはヤールの、そしておそらくはベルナデットの海でもあるのだろう。
ネリスと、ネリスの抱く海が愛おしかった。
「あんたがそう思っているなら、きっと帰れるんだろうな。俺たちの、あの海に」


ネリスの背後に燦めく湖のささやかな波に、今は聴こえない故郷の海の潮騒が重なった。






《END》 ...2007.04.02




 


某所ヤルネリまつりに投稿させていただいたものです。
ED後に群島を離れることになっても、ネリスの抱く海が二人の拠り所であり、
いつか帰るところだったらいいなと思いつつ。
結局、離れていても忘れなければいいという・・・「コイバナ」と基本は一緒なのかも。





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