「深海夜話」




「だけど、得るものだってあったと思う・・・」
唐突に少年は呟いた。
いつの間に手袋を外していたのか、露わになった左手の紋章を見つめている。

それは、真の紋章を異界へと誘う霧の船で、案内人となっていたテッドという少年の問いに答えた言葉だった。紋章のせいで失ったものも多いだろうと言われ、少しの逡巡の後、少年はそう答えたのだ。
「失ったどころか、」
少年の声に、愉悦が混じる。
「以前の僕はなんにも持っていなかった。自分の身さえ、自分のものじゃなかったんだから」
領主の館に小間使いとして置かれていた頃に比べれば、戦のさ中とはいえ、遥かに上等の待遇と言えるだろう。
「罰の紋章を宿したとたん、色んなものが僕の周りに集まり始めた・・・・・。でも、別に何かが欲しいと思っていたわけじゃないんだ」
たった一つだけ欲しいと思ったものはもう手に入れたしね・・・と、少年はヘルムートをちらりと見遣る。ヘルムートは嘆息した。
この少年が愚痴とは珍しい・・・・。自分と同じ、厄介な真の紋章を宿しているらしいテッドという少年が余程気にかかるのだろう。半ば囚われるように霧の船に乗っていたらしいテッドを、少年は連れ出した。その心を動かした言葉は、傍から見れば前向きで力強いものに思える。だが本音はと言えばこうだ。そしてそれはヘルムート以外の者に漏らされることはない。
心配をかけまいとしているのか、虚勢なのか・・・・気心の知れた騎士団からの仲間にさえ弱音を見せない少年だったが、何故ヘルムートにだけこうも懐いてくるのだろう。
仕方ないよ一目惚れだったんだからと言われたことがあるが、ヘルムートには理解しがたいものだった。
とは言え、犬でさえ三日も飼えば情が移るもので、軍主の権限を振りかざすこともなく少年はいつの間にかヘルムートに近付き、その心にまで入り込んでいたのだ。
少年の生い立ちや、心の内を知れば知るほどに深くなるそれは、何と言い表せば良いのだろう・・・・。

「手に入れたところで、全ては借り物・・・・」
少年は相変わらず、紋章を見つめている。口元に浮かぶ笑みは微かで、皮肉とも自嘲ともとり難い。
「借り物の金印、借り物の船、軍主だって戦いが終われば必要なくなる・・・・僕はまた、何も持たない僕に戻って・・・・」
少年は言葉を切った。左手を掲げ、紋章を示す。
「違う・・・。たぶん今度は、自分の命だって失くしてしまうはず・・・。何も持たないどころか、何も、残らない・・・・・」

こんな独白にどう答えろと言うのだろう。ヘルムートは黙ったまま、続きを待った。

「それでも、」
少年はヘルムートに向き直った。真っ直ぐに瞳を見つめてくる。
「あなたは・・・あなただけは、永遠に僕のものだと・・・・・思うことだけ、許して。」
それはなんと慎ましやかな願いだろうか。伸べられた左手をヘルムートは取る。
許しを請う者の位置が逆ではないだろうかとふと思いながら、甲に刻まれた紋章に口付けた。
「君が死んでも、残るものは、ある・・・・」
ヘルムートの言葉に、少年は海色の瞳を見開いた。
「・・・例えば、罰の紋章、とか・・・・?」
「その他にも。」
「・・・・そう・・・・・」
目を伏せた少年は、一瞬泣きそうにも見えたが、すぐに顔を上げにこりと笑った。
ヘルムートに預けられたままだった少年の左手が、ヘルムートの手をしっかりと掴まえる。
「それでも、永遠に僕のものであって欲しいと思うのは、あなただけだよ」

叶うことのない少年の願いは、その強さと相反する儚さでヘルムートの心に刻み付けられた。

 








《END》 ...2006.11.25




 


「得るものだってあったと思う・・・」って、すごく好きなセリフです。
過去と未来と現在を全部まとめて抱き止めてる感じ。たとえそれが幸せでもそうでなくても。





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