その日は出撃もなく、陸はまだ遠く、ヘルムートは珍しく暇を持て余していた。
甲板に積まれた木箱に座り、ぼんやりと海を眺めていると、少年がトコトコと近付いてきた。
話しかけられ、他愛のない言葉を二、三交わした後、少年は言った。
「・・・ねえ、キスしていい?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
いきなりのそんな言葉の真意を測りかね、ヘルムートが答えられないでいるとそれを肯定と取ったのだろうか、少年は身をかがめて顔を寄せてきた。

とん、と軽く触れるだけのキス。

のぞき込む海の色の瞳がわずかに細められ・・・・少年は来た時と同じようにトコトコと去って行った。

・・・あれは、笑ったのだろうか・・・・?
止まってしまったヘルムートの思考に、やけに印象的なその碧だけが残された。










「少年の羽」






「わー!これがあのユーラスティア号か〜!!」
「こらバジル、あんまり大声出すな!」
「後がつかえてるぞ、早く上れ!!」

久しぶりに停泊したラズリルの港。物資の補給や、久々の陸の感触を味わいたい乗組員たちが次々と乗り降りする。積み込まれるのは物資だけではなく、新たにこの地で仲間に加わった者たちもいた。
慌ただしい甲板で人の流れを誘導していたヘルムートは、ふと、人に紛れて板を渡ってきた小さな生き物に目を留めた。
「・・・・猫?」
どうやら皆、自分の運ぶ荷物や、船の大きさばかりに気を取られていて、小さな猫には気付いていないらしい。猫はそんな人間たちにはおかまいなしに、何喰わぬ顔で堂々と甲板に飛び降りると、今自分が上ってきた渡し板を振り返った。
「にゃ!」
猫の後から甲板に降り立ったのは、軍主の少年だった。猫に笑いかけて見せてから、少年は彼らをじっと見ているヘルムートに気付いた。
「やあ、ご苦労さま」
そのわずかな隙に、猫は人混みに紛れてどこかへ行ってしまった。
「あの猫は・・・・」
「一緒に船に乗らないかって聞いたら、いいよって。ずっとラズリルの港に住んでいた子なんだけど・・・」
「・・・・知っている・・」


そう、ヘルムートはあの猫を知っていた。
港に限らずラズリルにはたくさんの自由な猫がいたが、中でも特に人懐こいようで、ヘルムートが海上騎士団の館に駐留していた時にも、テラスを伝ってか部屋に現れたのだ。
「ここの住人に会いに来たのか?残念だが、今は私がここの主だ・・・」
近付いてきて不思議そうに見上げる猫にそう言ってやったのだが、誰が館に住もうが猫には関係ないようだった。それからも館内のあちこちを勝手に歩き回り、その愛想の良さで兵士たちにも可愛がられていた。

「いいのか?船に乗せてしまって?」
「大丈夫。あの子なら、たぶんどこにいたって生きていけるよ」
「それもそうだ・・・」

考えてみれば、この船に乗っている人間だって皆そうだ。なにもかも失ってここにいる者もいる。しかし、共通しているのは、躁状態と言ってもいいのではと思えるほどに皆が前向きだということ。この船が、自分たちが負けるなどとは露ほども思っていないらしい。たとえ船が沈められたとしても、どこかの島に泳ぎ着いてたくましく生き延びるに違いない。
「あははっ、確かにそうかもね!」
皮肉とも取れるヘルムートのそんな言葉に、少年はこともなげに笑った。
「でも・・・あなただって、この船の一員なんだよ・・・・?」
「・・・・」
小首をかしげた少しの上目遣いでそんなことを言われ、ヘルムートが言葉を詰まらせると、少年はまた、わずかに目を細めるあの笑みを寄越して、「じゃあね!」と行ってしまった。思わず見つめるその背中は、あっという間に人波に紛れて見えなくなった。






ラズリル出身のその猫は、間もなくユーラスティア号でも皆に可愛がられるようになった。あちこち歩き回っているようだったが、ヘルムートの部屋にもよく現れた。ラズリルを占領した時は港もかなり混乱したし、先の奪回戦でもかなり騒がせてしまったと思うのだが、こうして恐れずに懐いてきてくれるのはやはり嬉しかった。
膝の上で丸くなる猫の背を撫でながら、ヘルムートが思い出すのは、やはり少年のあの言葉だった。
「どこにいても、生きていける・・・・か」
だが果たして自分もそうなのか。自分がこの船に乗ったそもそもの経緯を思い返すとますますわからなくなる。
それは迷いだった。クールーク海軍の軍人である限り、気付いてはならないはずの迷い。だが、それはたぶん、ラズリル奪回戦で敗北し、この船に乗ることになる以前から感じていたものかも知れない・・・。

猫がヘルムートの膝の上で身じろぎした。考え事をしているうちに、撫でる手がおろそかになっていたようだ。
「あ・・・・すまない・・」
思わずヘルムートが謝ると、身を起こした猫は、止まってしまった手に頬ずりしてから床に降りてするりと部屋を出ていった。
好きな時に来て、好きな時に出て行く。そんな猫をなんとなしにうらやましいと思っていたことに気付いて、ヘルムートは独り自嘲する。
「・・・いつからだ、こんなに弱くなってしまったのは・・・・・」







それから間もなく、軍師はオベル奪回に向かうことを宣言した。船全体がなんとなく興奮したようなざわめきで包まれ、ヘルムートも準備に追われていた。
そんな中、甲板の片隅で猫を構っている少年を見付けた。
しゃがみ込んで猫の喉を撫でていた少年は、やがて猫を抱き上げて立ち上がった。両手で持ち上げて猫と向き合い、おもむろに顔を寄せる・・・・
「あ・・・・」
ちゅ、と音が聞こえたような気がした。猫の鼻先に軽いキス。これは・・・・自分に仕掛けてきた、あの謎のキスと同じではないか。
なんとなしに脱力したような気分で見ていると、少年がヘルムートに気付いてしまった。この距離では声は届かないが、やあ、と言ったように少年の表情が緩んだ。気付かれてしまった以上、このまま立ち去るわけにもいかない。ヘルムートは少年と猫に歩み寄った。

「忙しそうだね?」
「・・・まあ、それなりには」
我ながら、愛想のない受け答えだ。あのキスを思い出してしまったせいか、一層声が固くなっているのがわかる。
「もうすぐオベル奪回戦だからね・・・。僕だってそれなりに忙しいんだけど」
でもこの子が構って欲しいって言うから。そう言って少年はにこりと笑う。大規模な海戦を控えた軍のリーダーだというのに、その悲壮さは微塵も感じられない。ある意味大物だ。それが船の皆にも伝わっているのかも知れない。
「まったく・・・」
少々あきれたようにヘルムートが溜息を洩らすと、心外だと言う風に少年は唇を尖らせた。
「ホントだよ!僕だって忙しいんだから!・・・それにさ、そんなに心配しなくても、この船が沈むことはないよ」
あまりに自信たっぷりのその物言いに、ヘルムートはまた呆れ、また感心した。
「なぜそう言い切れるんだ・・・?」
「だって、僕だってまだ死にたくないもの。この船に乗ってる人たちだけじゃなくて、僕自身のためにも負けるわけにはいかないんだ」
猫を抱いたままの少年の目が、強くきらめいた。
ヘルムートがクールーク海軍に仕官して以来、戦うのは常に国のため、あるいは尊敬する上官のためだった。
・・・自分のためだというのか・・・・!
その強さの在りようは、ヘルムートには新鮮だった。
だがこの少年は、その身に宿す紋章のために、明日をも知れない命なのではなかったか・・・?

「この戦いが終わったら・・・って、考えたことある?」
「それは、あるが・・・・・実は、迷ってばかりだ」
驚くほど正直に、ヘルムートは本心を伝えてしまった。
「僕もだよ・・・!ラズリルに戻って海上騎士団をやり直すかも知れないし、今こんな大きい船の艦長やってるから、ラマダさんあたりと組んで商船を動かすのもいいかなって思うし、いっそキカ様みたいな海賊になるのにも憧れてるんだ・・・!」
・・・なんて広い。少年の夢は、大海原の航路のごとく、自由で大きかった。
「生きていればさ、どの道だって選べるんだ。だから、僕は生きていたい・・・」
少年の声のトーンが、わずかに下がった。それに覆い被せるように、ヘルムートは言った。
「そうだな・・・・。私も、クールークに戻るかも知れないし、それ以外かも知れない。だが・・・・」


「にゃ〜〜〜」
それまで大人しくしていた猫が、少年の腕から伸び上がって、ヘルムートを見上げてきた。
「わ!」
緩められた腕から逃れるように身をよじらせ、顔を寄せたヘルムートの唇をペロリと舐めてから猫は音もなく甲板に飛び降りた。
「にゃ!」
挨拶のように一声かけて、猫はそのままとっとこ駆けていってしまった。
「・・・・もう付き合ってられないって!自分から構って欲しいって言ったくせに・・・」
ちょっと拗ねたように甲板を見遣る少年は、しかしすぐに表情を変える。
「あの子みたいに、たぶんどこにいても、きっと大丈夫だよ・・・・・僕も、あなたも」
「・・・そうだな・・・・・」

紋章を宿す少年も、そして自分も、この船に乗っている以上、明日をも知れない運命なのは同じだろう。
とりあえず生き残って、少年の行く道を見届けるのも悪くない。

・・・・今はまだ、迷うばかりだったが。













「・・・ホント言うとさ、ずっとこの船に乗ってくれていたらな・・・って、思うんだけど?」


少年がヘルムートにこっそりそう囁いたのは、その時だったか、あるいは後日のことだったか。






《END》 ...2004.09.18




 


タイトルは新居昭乃の超マイナーな曲。

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